「仏教のメカニズム」〜私でも仏になれる?〜 [242回 H27/9/10]
講師:野崎泰雄 師 曹洞宗長泉寺 住職/
講師プロフィール:
1949年生まれ 神奈川県出身
(一社)仏教情報センター相談員 テレフォン相談にて仏事・人生など多くの方々の相談に応える

お釈迦さまは、最期の説法の中で「我、今滅を得ること悪病を除くが如し」とご自分の死を表現しています。悟りを得たはずのお釈迦さまが「私の中にある悪い部分を除くことが出来ずに今日まできたが、これでやっと悪い部分を除くことが出来る」と公言しています。悟りとは何か、仏に成るとは?

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<講演録>

こんにちは。あいにくの雨のところ、こうしてお集まりいただき、仏様のことを考えていただけるというのはありがたいことだと思います。私は曹洞宗の野崎泰雄と申します。お寺は長泉寺と申します。私、名刺にはこれしか書いていません。あとは裏に自分の住職地と連絡先だけ。他は必要ないからですね。実はもう一つ書きたいことがあるんです。両親の名前を入れたいなと思います。なぜかって言うと僕のルーツだから。歳を重ねれば重ねるほど、ありがたいことに出会えば出会うほど、私にこうして伝えてくれた師匠、あるいは私を産んでくれた母親っていうものにものすごく戻っていくっていうか、疎かにできないなというところが増長してきます。

最初に、皆さん方に頭の中に入れておいていただきたいことがあります。
仏教とはなんなんだろう。みなさん方なら耳にタコができるくらい聞いてることだと思いますけれども、改めて仏教とはと言われると、私は「そのときを真理に従って生きる教え」って捉えているんですね。もっと平たく言っちゃうと、仏教って生活の仕方の教え。だからそこに真理というものがなければならないっていうことが仏教なんです。いい表現の仕方をある本の中で見つけました。『死を問いとして、それに応えるに足る生き方を教える宗教』ピタンコと思いました。金子大栄っていう真宗大谷派の方で学者さんなんですけれど、これはね、的を得ていると思います。
これから私がお話ししていく中で、私は今日、なるべく仏(ほとけ)という言葉を使いません。
なぜなら、仏(ぶつ)=「ほとけ」ではないということ。仏陀というのはあくまで釈迦牟尼です。私たち仏教徒が仏陀と言えばお釈迦様なんです。ブッダがインドから中国に伝わって、音写されて仏陀と。それを日本人がどう勘違いしたか、仏(ほとけ)と訳してしまったところに、日本人の一五〇〇年に渡る錯覚があるんですね。
それは何かって言うと、「仏陀って何よ、まあ世の中の汚れを全部修行によって洗い流して、まっさらになって、本当に完璧な善の体になって…」ということを多分聞いたときに、ああ、俺たちの仏(ほとけ)と一緒じゃねえかって思っちゃった日本人がいたんですよね。その仏(ほとけ)って何かって言うと、呼吸の終わった骸のこと、つまり屍体のことですよ。今日はその仏(ほとけ)ではなく仏陀で通したいと思います。

仏教の基本っていうのは、仏法僧の三宝と言って、三つの宝。「仏」は真理を会得した人。つまりお悟りを開いたお釈迦さん。「法」はそのお釈迦さんの示された真理。そして「僧」っていうのは我々個人の坊さんのことではなく僧伽(そうぎゃ)という真理を求めて修行をしようとする人が集まった集団のことを言います。これは場所や建物がなくてもいいんです。ものの話によると、修行者が四人以上いるとそれは僧伽だったそうです。私みたいな仏教徒が三〜四人いたら僧伽。私個人が大事なんじゃないんですよ。なぜ僧伽が大事かっていうと、伝言ゲームと一緒です。例えば誰かにこのことをこっちの人に伝えてくださいって言うと、私ひとりだと自分の都合の良いように伝えちゃうかもしれないし、あるいは意図や悪意がなくても、間違って伝えちゃうかもしれない。だからお釈迦様は団体を大事にしたんですよ。自分は一人しかいないじゃないですか。団体を大事にして、自分はもう終わるのを悟った時点でみんなに覚えてもらうために僧伽という組織を作って、その組織の中に律という決まりを作って運営する方法まで考えた。教えをより的確に伝えるためです。

涅槃っていうのは「悟りを開くこと」とあります。悟りを開くということは俗世間から自分のこの身をお悟りの世界に移動することですよね。俗世間を終わることなんです。だからそれを死と捉えたのかもしれない。
とにかく涅槃という言葉には「悟りを開く」と「悟る」という意味と、それから「死」という意味があるそうです。この「死」にはですね、死にきっちゃうという意味があるんです。
仏教では輪廻という言葉がよく出てくるじゃないですか。生まれ変わるという。でもこれを涅槃という言葉を使うと生まれ変わりはないんです。死にきっちゃう。
輪廻というのは生まれ変わりたいって煩悩が原因で輪廻があるという。でも涅槃っていうのは、お悟りを開く、真理を理解する、その真理に基づいた生き方をしているわけだから、俗には戻ってこない。つまり、真理の生活を永遠に続けること、その中に実は自分の体が滅びるという死がある、しかし肉体が滅びても心が会得したことは滅びない。
これを僕は成仏のメカニズムってしました。 
こうやれば成仏できるんだよっていうことを話すんではなくて、経典を中心にお話をしていきたいと思います。
まず『修証義』というお経があります。(中略)

さっき仏陀というのは釈迦牟尼仏陀と言いました。お釈迦さんは、ゴータマシッダールタという人なんだそうです。
その人は出家して一生懸命自分の生きる道を模索して。そして誰がゴータマシッダールタのことをあいつは仏陀だって言ったんでしょうか。
お釈迦さんのように道を極めたいって思っていた人が当時のインドにはいっぱいいた。その中で、その道を求めている人が、自分以上に輝いている人間を見つけて、「何もんだよあいつ。俺たちが求めているのは、あいつの姿そのものじゃないか」って認めた人が一人、二人、三人…出てきたわけでしょ。そうか、あの人はついに真理を得たのかもしれない。じゃあちょっと行って本物かどうか試してみようって、集まってくるうちに本物さがどんどん証明されていって、名声が湧いてくると、あの仏陀になられた人は誰だって。釈迦族の王子様。そうか、釈迦族の王子様がついに仏陀になられたかって。釈迦牟尼仏陀でしょ。僕、仏教ってね、論理的に追い込んでいって、難しく考えると余計分からなくなるんだと思うんですね。そういうことも必要かもしれないけれども、人間がやったことですよね、要するに。人間の域を超えてないんですよ。だから私たちも目指せるでしょ。目指そうと思うわけじゃないですか。昔もっとそういうことを思った人たちがいたんですよ。ただ認めたのは周りの人だった。周りが鍛錬してる人たちばっかり。真理をつかもうと思って、鍛錬してる人たちがいっぱいいる中でお釈迦さんは光っちゃったんですよ。

<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>

(2015/9/10「いのちを見つめる集い」より)

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