福島第一原発20キロ圏内と私 [240回 H27/4/23]
講師:谷内俊文 氏 フォトグラファー
講師プロフィール:
北海道旭川出身
実家は創業100年の老舗写真館
東京工芸大学工学学部写真工学科卒業後、世界各地を放浪
帰国後、フリ−ランスのカメラマンとして幅広い分野で活動
2006年、ライカ社のカレンダーに故郷を撮影した作品が選ばれる
3.11東日本大震災以降ライフワークとして福島20キロ圏内の街を撮り続けている

私が福島第一原発20キロ圏内に身を削ってまで入り撮影する理由や、そこで見て感じて考えたことについてお話します。

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<講演録>

はじめまして、谷内俊文といいます。皆さんもご存知かと思いますが、私は立ち入り禁止になっている、福島第一原発20q圏内に、原発事故の一ヶ月後の四月十三日から入りまして、それから足掛け四年、ずっと撮り続けています。

 ■原発20km圏内へ■
 最初に20km圏内に行こうと思ったいきさつからお話ししたいと思います。
私はこの事故の写真を撮る前は、元々広告や雑誌とか商業的な写真を撮るカメラマンでした。
しかし、津波と地震と原発事故があって、人がすごく亡くなって、これは大変なことになった、今までの仕事の写真をのうのうと撮っている場合じゃないと、自分の中に危機感があって、どうしよう、私が行くべきなのかどうなのか、私が適任なのかどうなのかってことをずっと悩んでいたんですね。
その時に、僕の仲間で社会的な写真を撮るものがいて、「谷内さん、20km圏内に入るルートを見つけたから一緒に行きませんか?」と話をもらって、津波や地震で破壊されたところと、「天災」じゃなくて、人が作った(原発の)「災害」で人が亡くなったり、汚染されたり、いろんなことがあるという思いがあって、福島原発に行きたいと思ったんですね。

誰もこの中の状況を知っている人がいない。海外の知り合いも他の津波の被害があった場所の映像や写真や情報は入ってくるけど、第一原発20km圏内の周りの情報は全く入っていないし、どこにも写真、映像はないと。
それで僕が行く価値があるなって思いまして、当時、フリーの死んでも良いと思っているようなカメラマンやジャーナリストが入っている程度で、メディアに紹介されない状態だったんですね。
そんなことで原発事故の一ヶ月後に入ったんです。その時に撮ったのがこれです。

実は津波の被害なのです。だーっと波が来た後なんですけれど、四月十四日、事故後一ヶ月たつけど手付かずなんですね。ここに津波が来た状態のまま、放射線の線量が高くて作業員も作業に入れないし、救助の人も入れないので、そのまんま一ヶ月間、津波の被害の「標本」みたいな形でここに残っていたんですね。探せばご遺体が埋まっているような状態なんですけれど、こういう写真って、他のメディアでも津波の被害ということで、発表されているんですね。

 ■誰もいない街■
でも、もっと私がショックを受けたのが、「誰もいない街」です。
例えば東京のこの辺でも、大晦日とか、全く人がいなくなる時期が都市でもあると思うのですけれども、一瞬、本当に全く人がいなくなった街を見たことなかったんですね。どこまで歩いても、風の音と自分の出す音しか聞こえない。
そんな状況って、例えばハリウッド映画のセットでもない限り存在しない。確実に一ヶ月前まで人が住んでて、洗濯物が干してあるにもかかわらず、全く人がいないっていう状況を見たのが初めてで、その時に放射能の見えない汚染されたものの恐怖感を味わって、これは大変なことが起きているって思って、それでずっと記録し続けようって思ったんですね。

 今は合法的に20km圏内に入るようにはしているんですけれど、当時は国や警察も、そこに入ってくる人たちを防御していて、撮られたくないというのもあるし、そこで何かあったら困るっていうのもあるし、警備が厳しかったですね。
警察がずーっとその20km圏内をパトロールしているんですが、なんとか僕も撮りたい。
四月から一年で四回入っているんですけれど、それはもう全部誰にも断りも入れず、ゲリラで入っていました。
20km圏内の主要道路にコンクリートのバリケードがあって、最初は自転車に乗って中を行ったりもしていました。
途中からその自転車があると警察に見つかるので、自転車を捨てて歩くようになったんです。
最初はキャンプに行くみたいに、寝袋と水と食料とカメラを持って歩くんですね。警察に見つかると、すぐにパクられて調書を取られてから外へ出されちゃうんで、警察に見つかるかどうかが最重要問題点で、もう原発に行くというより、警察から逃げる方に全神経を集中して40km歩くみたいな行動なんですけれども(笑)
まあなんでこんなことをしているのかというと、とにかく、この20km圏内の写真を撮りたいから行くのだと。

リュックを持ってバリケードをくぐってからは、警察に見つかりたくないので夜に行動するんですね。
昼間は半壊した家とか軒下で休み、また夜に行動して原発を目指すのですが、夜はインフラが復旧していないので、電気、つまり街灯がないんですね。月の光は本当に大事で、月がないと全く道が見えなくて、自分で懐中電灯をつけると20km圏内ほとんどが真っ暗なので、そこに光があると、人がいるってことになる。そうするとそれをパトカーが見つけて追いかけてくるので、懐中電灯をたまに照らして道を見ながら歩くんですね。
それで何を言いたいかっていうと、富岡の海岸線を電気もつけずに、夜中の三時くらいにリュックを背負ってとぼとぼ歩いているときに、いろんなことを考えるんですね。ここで、何人も津波で亡くなっていて、ここに、たくさん浮かばれない思いを残した人たちの、いろんなものがあるんだろうな、と。

二日かけて原発の近くまで歩いて行って、また帰ってくるんですけれど、その時に思ったのは、戦場を行く人は、自分が死ぬ確率、地雷を踏む確率もある。それに比べると私がやっていることは生ぬるいなと感じました。
こうやって原発を目指したことは、自分にとっていい経験でしたね。

<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>

(2015/4/23「いのちを見つめる集い」より)

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