死んでゆかねばならぬこと [239回 H27/3/26]
講師:齋藤晃道 師 まーるが☆道の寺
講師プロフィール:
 埼玉工業大学非常勤講師/南無の会講師

末期がん患者と病床で宗教的な対話をした経験から、患者が発した一言から、
死んでゆかねばならないことの覚悟の難しさについて話したいと思います。

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<講演録>

 釈尊は「人間の世界は苦しみに満ちている。生まれることも、老いることも、病にかかることも、死んでゆかねばならぬことも、すべて苦しみである」と言われました。
人間が生きてゆく根本的な苦しみである生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)を「四苦」と言いますが、この「苦」は梵語の「dukkha」を漢訳したもので、「苦しみ悩む」のほかに「思い通りにならない」という意味があります。
私は「死苦」とは「死んでゆかねばならぬことは自分の意思では思うようにならない」という意味に受け取り、今日はこれについてお話したいと思います。

 ここにありますのは黒澤明の映画『生きる』のポスターです。
この主人公はブランコに揺られて唄を歌いながら死んでゆきます。
かすれた声でしみじみと

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

と歌うのです。死が迫っていることを意識しながらも、公園の造成を完成した達成感にあふれて死んでゆくのです。
 主人公は積み上がった書類にハンコを押すだけのマンネリの日々を過ごす市役所の課長。あるとき診察を受け自分が胃がんであることを知り、死が目前にあることに愕然とするのです。堅物の人間が無断欠勤して、夜の歓楽街を遊びまわり享楽を尽くすのですが、死の淵に立たされた心の痛みは癒されない。残る時間は短い、何かしなければと悩むのです。
そのとき、はっと思いついたのが、自分が棚上げしていた市民の陳情・公園造成の案件。翌日から役所に出勤して人が変わったように担当の課を回りはじめ、公園の造成を説得してゆくのです。次第に病状が悪くなる身体を引きずるようにして階段を上り、各部署を説き続けてゆくのです。数ヶ月にわたる努力が功を奏して、計画は承認され、工事が施工されて公園が完成します。
 残った短い時間に執念をかけた小さな公園のブランコに揺られて達成感にひたる心情が、生と死とに執着する心から抜け出た(解脱・げだつ)境地をもたらしたのです。
仏教では、このような境地を「生死(しょうじ)を離れる」とか「生死を超える」と言います。
 しかしこの「生死を離れる」境地に達するのはなかなか難しいのです。大脳生理学の先駆者・時実利彦は著書『人間であること』の中で「生への執着」と題して、人間の大脳の働きをこのように示しています。
 「大脳の前頭連合野(ぜんとうれんごうや)という人がより良く生きていくための意思や思考、価値の創造をつかさどっている分野が働いて、自分が死んでいくという現実を受け止めることができない。(中略)前頭連合野をいただいている私たちはすべて死にたくない、いつまでも生きたいという限りない生への執着を持つ」と。
 今は「がん告知」が普通に行われますが、現実に告知を受けることは精神的な衝撃と苦痛を伴います。
自分の死にどう向かい合い受け入れるかという深刻な課題があるからです。
 私は国立がんセンターの医師の紹介で、宗教の話を聞きたいという患者の病室を訪れたことがあります。お会いしたKさんは、その半年ほど前に血尿が出たことがきっかけで膀胱がんが見つかり、手術を受けた末期患者でした。
手術を受けるために、自分は死んでもいいと覚悟を決め、急遽、準備を整えて、公後顧の憂いなく手術台の人となったのですが、手術が終って意識が回復し、家族の顔を見た途端、「生きている、もっと生きたい」という思いが燃えあがったと言われました。
きっぱりと死を覚悟したはずなのに、その覚悟は消え失せて、反対に、もっと生きたいと生へ執着する自分が情けない、意気地がなくなった、と悩んでいたのです。
 がんと闘った東京大学の宗教学の岸本英夫教授の遺稿には、
「私は今さらながら人間の生命の執着の強さを知った。ひとたび生命が直接の危険にさらされると、人間の心が、どれほどたぎり立ち、たけり狂うものであるか。(中略)私は身をもってそれを感じた。私の内心は絶え間無い血みどろの戦いの連続であった」
と書いていますが、Kさんの苦悩もこのようだったのではないかと思います。

 死にゆく人の心理を研究したキュブラー・ロスは「科学が進めば進むほど、人は死の現実を恐れ、死を否定する傾向が強まり、死に直面する能力が低下する。知性とか理性に頼ろうとするほど、人間は死を受け入れることが難しくなる」と言っています。
前頭連合野が働いて、自分の価値を高めようとする理性の心の働きが動きだすと、人は「生死を離れる」境地に入るのが難しくなるのではないかと思います。

 念仏を説いた法話に
「川があって、川の向うに安らぎの岸が見える。いよいよという臨終の間際に、この川に行き当たって、なんとか向こうに渡りたいと思うとき、ふと見ると岸に舟が舫(もや)ってあり、船頭さんもいる。ああ良かったと思いながらも、しみじみと舟を見て、この舟で向こうまで渡れるのかな、途中で沈んでしまうのではないか、などと理屈を言って疑う人が多い。ところが素直な人は理屈を言わず『船頭さん、向こうへお願いします』と任せ切って向こう岸に難なく渡ってゆく。」
というのです。
このように理性のこだわりを離れて、素直に信じきった時に、「生死を離れる」境地に入れるのではないかと思います。

 臨終で、苦痛に苛まれている時でも、南無阿弥陀仏と唱えれば必ず浄土に往生できると経典に示されていますが、これを信ずる心が「生死を離れる」ための大切な鍵になると示しているのではないかと思います。
 法然上人は「己(おの)がはからいを捨てよ」と言われます。
「はからい」というのは、自分でああしよう、こうしたいなどと思いめぐらし判断する心、これが理性的な思考であると思いますが、その心は捨て去って念仏を唱えるようにと言われます。
 また、法然上人の御遺言である一枚起請文(いちまいきしょうもん)には、
「たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍の身になして、
尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」
と示されていますが、この「よくよく学すとも」は仏の教えをよく学んで知識を身につけたとしても、「智者のふるまいをせず」、つまり智慧ある行い、態度をとることなく自分は愚かな人間であると思って念仏を称えるようにと示されているのは、理性を離れて、信じる力によって死に向かうときに「生死を離れる」境地に入れることを示しているように思います。



<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>

(2015/3/26「いのちを見つめる集い」より)


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