いいかげんに生きよう [238回 H27/2/26]
講師:鶴田 桃エ 氏 日本アノレキシア・ブリミア協会(NABA)
講師プロフィール:
摂食障害経験者/NABA共同代表者/精神保健福祉士
NABAの長年の活動からみえてきたのは摂食障害の“症状”は表面的な問題にすぎず、その背後には、現代社会を生きる多くの人に通じる“生きづらさ”があるということです。
そこから楽になるために必要なものは何か、仲間たちの経験と知恵をもとにお話しします。

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<講演録>
 NABA(ナバ)の鶴田桃エと申します。NABAは一九八七年に発足した摂食障害者の自助グループです。
自助グループというのは、本人同士が出会ったり分かち合ったりする中で、相互に回復や成長をしていくことを目指す集まりです。今日は、私やNABAの実感として摂食障害のことをお話しさせていただきます。
  一般的な摂食障害のイメージというのは、未だに思春期の若い女の子たちの病気とか、ダイエットの失敗が原因というように言われがちですけれども、NABAには、年齢は十代〜六十代、女性に限らず、男性やLGBTの仲間もいます。状況としては、今まさに引きこもって拒食や過食をするしかないという方から、そういった過食や拒食を恥じているからこそ、人並み以上に立派な社会人や主婦をやっていたり、例えば自分自身が保健師・看護師、医者や教師といったいわゆる「先生」と呼ばれるような援助職に就いていたりする仲間も珍しくありません。
 拒食や過食や嘔吐といった摂食障害の症状が単独であるということは実際にはほとんどありません。ですからNABAに来る仲間は、よく、「実は私、摂食障害以外にも鬱があるんです。」とか、最近では、「双極性障害です。」とか、「発達障害です。」とか、「実は、実は…」と言いますけれども、リストカットやオーバードーズ(過量服薬)、依存症や他の精神疾患も含めて、摂食障害と他の問題が重複しているのは決して珍しくないことです。
 それから、最近増えているのは、「これくらいで摂食障害と言ってもいいでしょうか。」という仲間です。
私自身はすごく激しいタイプの摂食障害者でした。拒食から始まって、30sを切って、入院して、それから引きこもって、過食になって過食嘔吐になって。その間に大学を卒業したり就職もしましたが、結局人間関係で仕事がだめになり、引きこもって、また過食と過食嘔吐。その間に病院も入退院を繰り返し、万引きがあったりとか、家の中で暴れたりとか…。それで、こういった私のかなり激しい体験談を話すと、皆さんの中には「摂食障害って恐ろしいものだ」と、強烈なことだけ覚えて帰っていかれる方もいるんじゃないかと思います。ただ、ここでお伝えしたいのは、症状や問題の激しさ=つらさではないし、人のつらさは比べることができないということです。派手な症状の人は周囲が気づき、放っておけなくなって、それをきっかけに助かる場合もあります。
一方で、地味な症状の人は、「もっとつらい人がいるのに、こんなことぐらいで悩んじゃいけない。」と自分の症状も問題も過小評価してしまう傾向があって、申し訳なさそうにしています。
そうして一見、人並み以上に生活しながら苦しんでいる仲間たちもいることを知っていただきたいと思います。
摂食障害というと、「症状さえなくなったら回復」と思われがちです。どうしても、食べる食べない、痩せた太ったなどの症状だけが注目されがちですね。今でもそうですが、私が症状バリバリだった二十数年前は、摂食障害者は、学校に戻れたり、仕事ができたり、結婚したり出産できたりしたら、お医者さんから「君は治ったね。」と太鼓判を押されるような、そういう「女ならこう生きるべき」といったモデルに基づいた決め付けが強かった思います。ただ私たちが活動する中で、決してそういうことだけが回復・成長ではないということが分かってきました。
そもそも、摂食障害の症状はあくまでも症状で、コップに浮かんでいる泡のようなものです。その泡ばかり見つめていても目が回ってくるんですよね。大事なのはその泡を出している根本的な問題は何かということなんです。それを私たちは、「自尊心のなさ」や「自己否定感」だと考えています。摂食障害になったから病気であると思われがちですが、摂食障害をくぐり抜けてきた仲間の多くが、「摂食障害になる以前の方がよっぽど病気だった」と言います。
 先ほども言ったように、NABAでは、摂食障害の根底にあるのは人間関係の中で作られてきた自己否定感、価値観・世界観の歪みと考えていて、生き方、生きづらさの問題だと考えています。「このままの自分ではだめだ。」「このままの自分では見捨てられる。」「自分なんか生きている価値がない。」といったものが根底にあるからこそ、ものすごく背伸びして頑張り過ぎて生きています。真面目で頑張り屋のいわゆる「良い子」が摂食障害になりやすいと言われているのにはこうした背景があります。
 勉強ができたり学級委員をやっていたり、スポーツを頑張ったりと優秀ですが、そもそも「このままの自分ではだめだ」と思っているから本人も無自覚なうちにすごく頑張って精一杯「良い子」をやっているんです。でも、元々は自己否定からくる頑張りですから、対人恐怖なんですね。人から見捨てられるのが怖いからそんなふうに一生懸命頑張っているわけです。でも、その「人間関係」といったときに、誰と誰が一番上手くいかないかというと、私たちは実は自分が自分と上手くいかないということが大きな問題だと思っています。
 頭の方には、こうすべき、ああすべき、こうしなくちゃいけないというふうに命令したり裁く自分がいて、だけどお腹の方には赤ん坊みたいな、食べたいとか、休みたいとか、それから寂しいとかそういったものが「おぎゃー」みたいな形で表現されて、そういった「おぎゃー」というものが私たちにとっての症状というふうに思っています。
 赤ん坊を育てるときに、余裕のあるお母さんだったら、「どうしたの?お腹すいてるのかなあ。」とか、「おっぱいかな?」とか、「おしっこかな、靴下きついかな。」なんて声をかけてあげて、「おぎゃーおぎゃー」と泣いているところをそうやって丁寧に聞いて、なだめるというか、欲求を叶えてあげることを繰り返すと思います。
でも、先ほども言ったように摂食障害者の頭の方には意地悪な自分が住んでいますから、例えばお腹がすいていれば食べたいと思うのが当たり前だったり、人によっては痩せたいとか、好かれたいと思うのだと当然の気持ちだったりするのに、
「またそんな卑しいことを考えてるのか。」とか、何か良いことしても
「この偽善者め。」と言って、そういう頭で考える厳しい自分がお腹の方の赤ん坊の自分と喧嘩している状態が症状になって表れていると私たちは考えています。
 じゃあどうしてこのようなことが起きてきているのか、『自分と自分自身が仲が悪い』ことからはじまっている対人恐怖はどこからきたのか、ここで少し家族のことをお話したいと思います。
 摂食障害の仲間たちの中には、お父さんにアルコール依存症があるとか、お母さんに精神疾患があるとか、明確なDVや虐待があったという家もあります。
ただ、外から見て明らかに問題があると分かるような家庭よりも、割と多いのは、外から見ると「良いお家」というような家庭です。お父さんは仕事を頑張り、
お母さんは良妻賢母と言われるような、それから凄くパワフルだったり。
先ほど本人たちに援助職が多いと言いましたが、お父さんお母さん世代にも先生と言われるような職業が多いです。
 外から見ると良いお家に見えるけれども、その良いお家を守るために家族全員がすごく緊張感が高かったりします。私の場合もそうでしたけれど、
「鶴田家に生まれたからにはこういう娘でならねばならない。」みたいな感じを幼いながらにもっていました。それから、家族の中でなにか問題が起きても、そういう家は
「うちはなにも問題ない。」というふうに否認する傾向があったり、壁が高くて外に相談できないということがあります。
 NABAでは親御さんからの電話の相談を受けたり、それから「やどかり」という家族のグループもあります。私が普段、摂食障害者の親御さんと接していて思うのは、まずは「主語がない」ということです。もちろん、子どもが摂食障害になって混乱しているというのもあるとは思いますが、電話をかけてきても、いきなり「今、拒食症で、大学生で…」と話しはじめて、少し年配の声だけど、さっき言ったように五十代、六十代の仲間もいますから、念のために「それはあなたご自身のお話しですか?」と訊くと、
「いや娘のことです。」と。そういう親御さんは、自分の気持ちと娘の気持ちがごちゃまぜになってしまっているということがあると思います。それから、極端ですね。
お話ししていると、「じゃあもう放っておけば良いんですね。」とか、
「とにかく見守ればいいんですね。」とか言って、
やるかやらないかの両極端になりやすいですね。
 私たち本人も完璧主義や白黒思考の傾向が強くあります。
過食と拒食の繰り返しが象徴的ですが、やるのだったらきちんとやる、完璧にできないのであれば全くやらないみたいなことですね。それから、
「どっちが良いか悪いか」で考えやすいですね。人間大事なのは「好きか嫌いか」とか、「どうしたいか、どうしたくないか」が大事だと思うんですけど、「どうすべきか、どうすべきじゃないか」というふうに、なんでも良し悪しや「べき」で考える癖があります。
これは、本人だけじゃなく親御さんにもすごく感じますね。さっきお話しした親御さんの極端さもそういうことの表れだと思います。
 私たち本人が親に求めているのは、暖かい関心なんです。
ところが、親御さん、特にお母さんはすごく追い詰められていて、娘がどれだけ食べたかとか、どれだけ体重が減ったかとか、どれだけ吐いているかとか、身体中に目や耳がついて見張っているような状況に陥っていることがあります。
それは関心と言うよりも「監視」なんですよね。
 私たち本人は、十代〜二十代の頃は、摂食障害の症状に明け暮れて、一方でその症状に助けられてなんとか生き残っているという状況があります。
なので、NABAみたいな自助グループに繋がるまでには結構時間がかかって、二十代後半あたりで、「もう自分の力だけじゃだめだ。」と思う頃が多いです。
一方で親御さんからの相談の場合は、娘さんや息子さんが十代、二十代前半くらいの場合が多いですから、その時にまず私たちがお伝えしているのは、
「まずはお母さん自身が助かって欲しい」ということです。

<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>

(2015/2/26「いのちを見つめる集い」より)

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