名の仏教 [237回 H26/12/11]
講師:阿満 利麿 氏 明治学院大学 国際学部名誉教授
講師プロフィール:
 1939年生まれ 京都大学教育学部卒業
NHK入局 社会教養部チーフ・ディレクターを経て、明治学院大学国際学部教授
現在、明治学院大学名誉教授 日本宗教思想史専攻
   
 12月の「講題」は「名の仏教」としてみたいと思います。名は念仏のことですが、いきなり念仏というよりも、名前一般から説明してみたいと思っています。

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<講演録>
 私は宗教というのは「大きな物語」だということを、ずっと言っています。「物語」であるから、科学的に証明できなくてもいいわけです。何か筋が通り、道理があり、その道理にうなずくことが出来ればそれでいいのです。
 ずいぶん前の話ですが、新潟であるご老人にお会いしたときに、その方が自分の人生で一番辛かったことは、自分が三十歳の時に小学生の子供を失ったときだとおっしゃり、実はその子供が亡くなった日の夕方、そのショックでおばあさん、つまりご自身の母親までが亡くなってしまったときだと話されました。小さい棺と大きい棺、二つが並んだときに、もうこの世には頼りになるものなんて何もないと、うめきの声のようなものを起こしたというのです。そしてそれから私と出会うまでの四十年間、ずっと頼りになるものは何かということを追い求めてきたといいます。
 新潟はご存じのように浄土真宗の強いところです。そうした環境の中でずっと周囲からお念仏の話を聞いてきて、私と出会い、いよいよお念仏こそが頼りになるものだということの確信を得たといいます。
 私たちは日常の暮らしの中でいろいろな「物語」を生きています。いわばそれは「小さな物語」です。その「小さな物語」を積み重ねながら、その場を繕い、一日一日を送っているのが普通でございます。しかしそういう「小さな物語」を生きていると、どうしても解けない問いというものが出てくるものです。人間とは自分では解けない問いというものを発する奇妙な動物で本当におもしろい存在なのです。考え方によっては、自分で解けない問いを発するということはすばらしいことで、ある意味では人間の一番すばらしいことかもしれません。その絶対解けない問いに答えを与えてくれる、あるいは答えの手がかりを与えてくれるものが
 「大きな物語」です。ですから「大きな物語」は、日常の常識から見たら、受け入れがたい内容になるのです。
 時にマスコミなどは、宗教というものは怪しげなものだと言います。人間は「大きな物語」なしには生きて行けないにもかかわらず、「大きな物語」と出逢うチャンスを全部つぶしてしまっています。そして人間は生まれてから死ぬまでがその人の一生だと限定してしまって、その一生をいかに楽しく過ごしてゆくかということにうつつを抜かしていて、そのことになんの疑問も感じなくなっているのが現代の状況でしょう。
 先日ある新聞記事から教えられたことがあります。定年を迎えたサラリーマンが、毎日が日曜日になったときうれしくてしょうがなく、海外旅行にゴルフ三昧、もう自分のやりたいことをやれるだけやったそうです。そして五年たったときに、奧さんにつぶやいたそうです。「やりたいことは全部やったけれど、なんかむなしい、これでいいのだろうか。」と、どう思われますか、毎日が日曜日で、好きなこと、やりたいことをやり尽くしていいじゃないかと思いませんか。しかし、むなしい、これでいいのか。こういう問いを発するときには、「大きな物語」を必要としているときなのです。日常の暮らしの中で発しても答えのない問い、そういう問いをついに元サラリーマンの方は発したのです。
 しかし奧さんに「そんなに暇なのだったら、私はまだ勤めているのだから、毎朝私のお弁当を作ってくださいよ。」とこう言われてしまいます。それで男性は新しい仕事が見つかって、弁当作りに精を出している。という話です。
 新聞記事はそこまでですが、私は彼が弁当作りに励んだのはもったいないと思いました。せっかくこんなにいい問いを発したのだから、「大きな物語」と出逢う努力をどうしてもっとしなかったのかと思いました。「大きな物語」は、人間が自分の生き方とか、自分のあり方について思わず発する問いに、容易に答えが得られるように導く内容をもっているのです。
 「大きな物語」つまり宗教は、人間が本来本当の生き方を求めているということを前提にして、それをそれぞれの立場で説いてゆく教えなのです。そして宗教と哲学、思想との違いは、教えの中で説くところの実践的な「行」、我々がどの「行」を選んで生きるか、そこが一番の要です。いわば仏教もその一つになります。人間の本当の生き方を追求しています。そしてそれぞれの宗派に分かれて、それぞれの「行」を実践して行くことを求めています。我々がどの「行」を選ぶか、それが宗派を決めるということになります。
 それでは「仏教の教え」とは、人間の本当の生き方とは何かに対する答えは、実はそんなに難しいことではなく、「人のために生きよ」ということです。先ほどのサラリーマンがむなしいと感じたのは、おそらく自分のことばかりを追いかけていたからでしょう。いつも自分が満足することばかりを求めていたので、むなしさみたいなものが出てきたのではないでしょうか。人のために尽くす、あるいは尽くすという言い方ではなく、人を念頭に入れる。そういう生き方がもしも元サラリーマンの方に始まったのなら、むなしさなど感じなかったのではないでしょうか。

布施行という実践

 ではなぜ仏教では「人のために生きよ」というのかと言えば、人は一人では生きていないからです。人は様々な関係の中に生きています。たとえば巨大な全宇宙を覆っているような網があるとして、その網の中の小さな小さな結び目が私なのです。だから私だけが突出して存在しているというのは妄想です。明治以降近代教育の中で教えてきた、自我の確立、エゴを強くするという考えは妄想に過ぎません。夏目漱石は「この頃の人間は金平糖のようなものだ」と言っています。金平糖は角がとがっていて、お互いぶつかり合っています。自己主張ばかりするあり方に、ちょっと待てよと言っているのです。仏教の教えでは、あらゆる存在は関係し合っていて、それぞれのあり方がある。だから自己主張だけを表に出すと、関係性が薄れて行き、関係がずたずたになると言っているのです。
ですから「人のために生きよ」ということは、わざわざ人のために生きることではなく、自分の在り様を見てみると、自分はいろいろな人との関係の上で成り立っているということが見えてくるはずです。そういう人たちに対する配慮なしに自分だけを主張するということはあり得ないことになるのです。


<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>

(2014/12/11「いのちを見つめる集い」より)

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