路上生活者への眼差しを考える―ひとさじの会の活動を通じて― [236回 H26/11/13]
講師:吉水 岳彦 師 浄土宗 光照院 副住職
講師プロフィール:
 ひとさじの会代表
 大正大学 非常勤講師
淑徳大学 非常勤講師
臨床仏教研究所 研究員
   
 路上生活者を含む生活困窮者に対する「葬送支縁」や、路上でおむすびをお渡ししながら声かけをする「おむすび支縁」などを通じて学びなおした如来さまの教えをご紹介しながら、参加者と共に“いのち”に向き合う際に大切な心を考えてまいります。

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<講演録>

私事ではありますが、昨晩まで東北に行っておりました。二〇一一年の三月十一日の東日本大震災以降、縁あって石巻や陸前高田市、大船渡市へ通うようになりました。石巻で大勢の方が亡くなりました。その中には多くのお子さんを含んでいて、なぜ自分よりも我が子が先に逝ってしまったのであろうか、なぜ私の子供は死なねばならなかったのか、答えの無い問いをずっと繰り返していく、そうした女性たちが集まる会があり、そこへ呼ばれてお話をさせていただきました。悲しい、ツラいという気持ちの背景には、その亡くした相手がどうしようもないくらいに大切で、本当に大事な人のことを愛してやまないということ、その愛情が悲しみと表裏一体のもので、どれだけ亡くしたときにツラいかということは、その愛情の重さと比例するのだなあということも会うたびに感じ、学ばされるのです。

【山谷の人々の思い出とご縁】
 今日お話しする方々のことは震災の津波の被害を受けた方々ではありませんが、彼らと同様に、大事な人たち・ふるさと・ものを失い、別れていかざるをえなかった人たちのお話です。
私が育った場所は、そうした人たちが肉体労働などの厳しい仕事をしながら身を置くところでした。また、仕事が出来なくなって、ドヤと呼ばれる簡易な宿に泊まれず、路上で生活する人も多くいる場所でした。一般的には、山に谷と書いて「さんや」と呼ばれていますが、今では地図にその地名はありません。
子どもの頃、小学校から帰って来ますと、本堂にお供えしてあったお菓子を小脇に抱えて逃げようとしていくおじさんがいたり、子供が見ても分かる、ちょっと怖い絵の書いてあるおじさんが、お墓の入り口で倒れているのを目にした記憶があります。また、寒い冬、小学校に行くときにアーケードのある商店街のところで救急車が来て、担架に載せられて運ばれていくおじさんを見たこともありました。小学校の校庭で遊んでいたときには、すぐ隣接していた公園側から、おじさんたちが集まってきて、フェンスにしがみついて鈴なりになってこっちを見ていた姿も覚えています。子ども心に、「何だよ、気持ち悪いな。何でこっち見てるんだよ」と思ったものでした。
果たして、彼らはいったい何者なのかと思って、大人たちに「あの人たちは、どうして路上に生活しているの」と訊きました。するとある先生は「いいか、あいつらはな、怠けてたからああなったんだ。ああいうふうになりたくなければしっかり勉強するんだぞ」と言い、ある大人は「見てみなさい。汚いでしょう。臭いでしょう。あの人たちはね、あんなんだって外にいたいの。勝手なんだから、ほっときなさい」と。またある大人は、「風呂も入らないで平気な奴らだ。いいか、危ないから近寄っちゃいけないぞ」と答えました。そう、分からないものって怖いですよね。怖い、危険、近づいてはいけないもの。だから私は子供の頃から路上に生活するおじさん達を、怠けている・汚い・臭い・勝手な・怖い・近寄ってはいけない人たちと思って育ってきました。まさに「偏見」そのものです。この偏見は、仏教を勉強して慈悲という言葉を何千回聞いても、いろんなお釈迦様の教えをいくら耳にしても変わりませんでした。悲しいことですね。目の前で倒れたりしているのに。でも好きにしているんだろうな、放っておいてほしいんだろうなと、そう思っていました。ところが、ご縁ってあるものですね。ある日突然、路上生活の方々のお墓が欲しいと相談を受けることになったのでした。
当初は、いきなり頼まれても、どうして良いか分からなくて。そもそもあの人たちは好きで路上生活をしていて、風呂に入ることだって嫌な訳ですから、そんな人たちが自分の意志で最期の時にお墓が欲しいだなんて言うだろうかと思いました。しかし、考えてみたら、私は今までちゃんとおじさんたちに向き合って、おじさんたちの声を聞いたことがありませんでした。ですから、まずはよく分からないので、相談してきた路上生活者たちを支援するNPOのところでボランティアをさせてもらい、どうしたら良いか考えさせて下さいと言って、路上生活者の支援に関わるようになりました。
新宿中央公園というところで行う炊き出しに初めて参加したときです。夜六時には人がいっぱい集まって、恐らく四百人以上は来ていたと思います。ボランティアの人々は、彼らのために七百食近くのご飯を出すのです。ご飯を炊く人、味付けをする人、大変だったろうなあと思います。ボランティアで行った私たちはそのできたものを混ぜ合わせたりして、ご飯を盛り付けて、できたどんぶりをどんどんどんどん机の上に並べます。そして七時になったら一斉にご飯を手渡していきます。そうやって配り終わった後、私たちボランティアも同じものを頂戴します。
「どうぞ」と言ってご飯を手渡され、食べようとしたときに、近くにいたおじさんをパッと見たら、あ、このおじさんも路上のおじさんなのだと気づいたのです。そうです、ボランティアをしていた人たち、支援を行う人たちにも多くの路上で生活する人たちが混ざっていて、そのおじさんがご飯を一緒に食べながら、気さくに声をかけてきてくれたのです。僕はこの頭ですし、そして作務衣という作業着ですね。すぐに坊さんと分ったみたいで、「なんだめずらしいなぁ、あんた坊さんかい。いやぁ、懐かしいな。俺さぁ、子供の頃、寺に連れて行ってもらうのが本当に楽しみだったんだ。お寺に行くときは手を引いて行ってくれるばあちゃんが、いつもは行かない美味しいお店に連れて行ってくれるから、それが楽しみで……」と言います。また別のおじさんがやってきて、「いやぁ、俺もよくお寺に行ったんだよ。家が貧しかったから、お菓子なんてろくなのなくて。でも寺に行くと普段家じゃ食べられないようなめずらしいお菓子が置いてあって、これをお寺に行ってもらうのがすっごい楽しみでさあ」と。また別のおじさんが来て、「いやぁ懐かしい。よくお寺の境内で遊ばせてもらって、間違えたことしたり、悪いことすりゃ、それはげんこつもらったけどさ」と、いろんな話をしてくれました。
私はおじさん達の話を聴いて、ハッとしました。当たり前のことですが、「あぁ、このおじさんたちは自分と同じように子供時代があったんだ」と感じたんです。私たちと同じようにお父さんお母さんがいて、私たちと同じように子供時代を過ごしてきて、私たちと同じように一生懸命に幸せになりたいって思って、一生懸命に生きていこう、そう思って生きてきた人たちなのだと、その時に初めて気づいたのです。当たり前のことですよね。でも、その当たり前のことが私の実感として分かってなかったことに気づいたのです。聞いてみれば当たり前のことです。幼い時にお父さんお母さんが亡くなってしまって人の家に預けられた人、貧しい生活のなか、親に迷惑をかけたくないから早く家を出たかった人など、その背景は様々です。でも、何の後ろ盾もない子供にできる仕事なんて殆どなかった。そうした中で無我夢中に、肉体労働でもなんでも仕事をしてきたんだけれども、歳をとれば続けられません。五十代になってくれば工事現場の仕事ってキツいですよね。なかなかできない、続けられない。そんな話を耳にして、それぞれの人が、その置かれた環境の中でできる仕事を精一杯してきた人たちなんだということも、そのときに初めて知りました。そして、一生懸命やってきたけど、思うようにならなくて路上に来ている人も多くいることもわかったんですね。
仏教では「無常」という言葉をよく耳にします。これも何千回も聞いて、何百回も話した言葉です。でも、私は彼らとふれあったときに初めて、机上で学んだ無常ではない、肌で感じる無常を教えられたように思います。私たちと本来は変わらない身で有りながら、でも思うようにならない中で、一生懸命もがくようにしてきたけれども、どうにもならなくて、諦めにも似たような形で今そこにたたずんでいるその人たちに触れたときに、どうしてこんなふうにツラい思いをするんだろうか、彼らは何があれば路上で生活せずに済んだのだろうか。がんばっても、思うようにならないことは苦しいことです。また、どんなに良い時があっても、其のままで居続けることはかないません。刻一刻と私たちは変わっていかなきゃいけないのです。子供にとっての無常は成長でしょう。でも、大人になれば老いとなり、途中で病にも遭わねばなりません。私たちと同じように、その置かれた環境の中で一生懸命生きたのに、周囲から理由なく蔑まれて生きなければいけないなんて、本当に苦しいことだと思いました。
子供の頃、商店街のアーケードの中で倒れて救急車で運ばれていったおじさん。もしかしたら本当は最後のときに誰か近くにいてもらいたいと思っていたのかもしれません。大切な人がそばにいたら、どれだけ心がやすらかだったことでしょう。鈴なりになって、子供だった私たちを見ていたおじさんたち。彼らはもしかしたら自分の幸せだった子供時代のことを思い返していたのかもしれません。そんなことを思ったら、私はたまらなくなってしまって、何かできることがあれば手伝いたいと思ったのです。
そして、お墓のこと思い出しました。そうだった、そのために来たのだったと。彼らも私と同じだったら、大切な人のことを思う気持ちに違いはないはず。だったら当然にお墓を作るべきだろう。そう思ってお墓を作る会議に参加するようになりました。

【「結の墓」の建立】
お墓を建てるための会議が「自立生活サポートセンターもやい」というNPOのサロンで行われました。このサロンは彼らの支援を受けて路上生活からアパート暮らしに戻った人たち、それから今なお路上生活をしている人たち、中にはネットカフェに住んでいるような人たち。いろんな人たちが集まる場所なんです。
初めてその会議に参加したときに、ある当事者の男性が言った言葉が忘れられないんです。彼は幼い頃に父親を亡くし、母親が経済的な理由から複数の子供を育てられないため、長男だったその男性は、他人の家に預けられたのだそうです。何十年も前のことです。大変貧しいところで育ち、学校にもろくに行かせてもらえず、家の手伝いをさせられていました。でも、その家の子供たちと同じようなご飯は食べさせてもらえません。とってもツラい時期を過ごしました。やがて早く東京に出たい、早くどこかで仕事をしたい、早くこの家を出たいと思って、夢や希望を持って東京へ出ていきました。でも、縁故のない人たちに良い仕事なんてなかなかありません。でも必死になって、仕事をしてきたんです。本当は結婚もしたかった。でも、そんな経済的なゆとりもなくて、家族を築くこともできなかった。それでも一生懸命働いて、定年まで働いて働ききってその後に第二の人生と思ったときに、信頼していた友人にお金をだまし取られてしまって、もう何を信じて良いんだかわからなくなったといいます。家族の縁も切れていて、他に何もない中で、唯一信頼していた友人に裏切られて、気がつけば路上をとぼとぼと歩いていたそうです。彼は体調を崩したことがきっかけで、「NPOもやい」に縁を結び、路上生活からアパート暮らしへ戻ったのでした。もともと福々しいお顔なのですが、安心して暮らす彼のニコニコ笑ったお顔は本当に素敵なんです。
彼はこう語ります。「みんなね、口ではどうせのたれ死にだとか、どうせ無縁仏だとか言っているけれども、本当は、心の奥底では誰でも良いから手を合わせてほしい、誰かと繋がっていられたら良いなと思っている。

<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>

(2014/11/13「いのちを見つめる集い」より)


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