あきらめる [234回 H26/9/11]
講師:矢田 弘雅 師 高野山真言宗 華嚴院副住職
講師プロフィール:
 仏教情報センター 相談員
 前職は段ボールメーカー 営業職(平成十一年〜十七年)

「もっとがんばれ」「諦めるな」とよく言い、またよく言われます。でも、諦めるって悪いことばかりではないんですよ。正しくあきらめることができれば、きっと苦労を減らすこともできるはず。自分の些細な日常経験から、身近なお話をさせていただきます。

-------------

<講演録>

高野山真言宗のテレフォン相談員で、矢田弘雅と申します。大勢の皆さんにお越しいただいたことは、本当にありがたく思っております。どんなに良い話や私の下らない話でも、聞いて下さる方々がいらっしゃらないと、ただの独り言になってしまいますので、こうやって来ていただいたことにまず御礼を申し上げます。どうぞよろしくお願いいたします。
本日は「あきらめる」ということを中心に、皆さんも経験したことがあるのではないかという、普段の暮らしに近いようなお話をさせていただければと思っております。私はご法事の前にちょこちょことお話しをするくらいで、長いご法話をした経験はありませんが、少しでも皆さんのお心やお耳に残るようなお話しができるよう頑張ってみたいと思います。
まず今日のテーマが「あきらめる」なので、さっそく皆さんにも諦めていただきたいのです。チラシを見てお出でになった方はいらっしゃいますか。ひょっとしたら、チラシの私の紹介欄を見たら誰も来ないのではないかと心配したのです。他の講師の方は、本を出してらっしゃったり、研究員だったり、名誉教授さんだったり皆凄いですよね。素晴らしい方々の中で、私の肩書は前職が営業マン。そういう回にたまたま、しかも足下が悪いのに来てしまった。そのことをまず諦めて下さいますよう、よろしくお願いいたします。

【多くの失敗を経て】
会社を辞めてお坊さんになってから今に至るまで、まっすぐには来ませんでした。大学も一般の学部で、卒業してすぐ会社員になったから、仏教の基本的なことを何も知らない。例えば何宗があるのと言われてもよくわからない。真言宗の大事なお坊さんの名前も知らない。でも、お檀家さん方はみんなよく知ってらっしゃるのです。「何だ、そんなのも知らねえのか。」と言われたらごめんなさいしかできなくて、「三十過ぎにもなってお前何やってんだ。」と言われることもありました。逆に皆さんから、何にも知らない私に良くしていただくこともあります。皆さんから見れば、袈裟と数珠を持ってこうやって来ればお坊さんなんですよね。だから葬儀屋さんから「先生」とか言われると、先生なんかじゃないのになって思います。それだけでも家に帰ってから、これで良いのかなと悩むような色々なことがありました。失敗もしました。お葬式の時に、元の名前の誰々さんと言う所で、例えばヤダさんと言わなければいけない所をスガさんと言ってしまい、もう何でそんな間違いをしたのか分からない。後でお詫びに行ったのにまた余計なことを口走って、本当に辛い思いしてらっしゃるところへさらに塩を塗り込んでみたりとそんな失敗もありました。色々な失敗をする中で、こうやっていけば良いのかなとか、こうしてみたら上手くいったかなとか、そういう経験がいくつかあります。それが今日お話しする「あきらめる」に繋がりますので、今日はそのことを話させていただきます。

【忙しい、とは】
皆さんは、普段忙しくお過ごしの方が多いと思いますが、漢字で忙しいという字はこう書きます。立心偏だから、つまり心ですね。心という字に、亡くなる、亡くするという字を合わせるから、これが忙しいということになります。けれども、私がちょっと捻くれているのかも知れませんが、忙しいから心が亡くなるのではなく、逆に心を亡くしているから余計に忙しくなっているのではないかなと思うのです。
用事が重なってしまうことがよくありますね。例えば玄関でピンポンピンポンと宅配便が来ているのに電話が鳴り、そうこうしているうちに携帯電話が鳴ったりしてね、どうしようどうしようとやることが重なってしまう。そうやって忙しくなっている時というのは、アタフタして落ち着いた心を亡くしてしまう。どれからやっていいのか、本当に大事なのはどれなのか、そういうことが分からなくなってしまうから余計に忙しくなってしまうのではないかな、そんなふうに思うんです。
パニックになると、普段できることもできなくなります。会社勤めしていたと言いましたが、本当にパニックになると電話一つかけられないです。お客さんからクレームの電話かかってきて、「うわっ、どうしよう。」と、工場にすぐ電話しないといけないのだだけれど、手が震えて、03がもう押せないの。003になったりとかね。今思うと嘘みたいですけれども、本当に三回やっても五回やってもだめで、泣く泣く事務のおばさんに電話かけてくれって頼みました。それくらいに、まあ人にもよるのでしょうけれどもパニックになる。忙しくなって心を亡くしてしまうと、普段できることもできなくなるし、そのせいで余計に忙しくなってしまう。
逆に、落ち着けばちゃんとできるのです。見かねた上司が「おばちゃんに電話させてどないすんねん。外に行ってタバコでも吸うてこい。」と言われてね、一服入れて戻って来たらちゃんと押せました。
だから、何か自分が忙しくなったり、やることがいっぱいになってしまった時には、すぐに頑張ろうとしない、焦らない、自分を外から見て「お前忙しくなっちゃったね、慌てなくても良いよ。ちょっとのんびりしようよ。」と、時間を置いてもらったら良いかなと思います。

【3つに分ける】
はじめに、「3つのこと」というテーマでお話をさせていただきます。自分がやること、やろうとしていることを3つに分けてみると、結構良いんじゃないかなということをお話ししてみたいと思います。
3つに分ける話をするのに何を例えにしようか迷いましたが、せっかくのお坊さんのお話なので、おじいちゃんの三十三回忌でもやろうかと思います。おじいちゃんの三十三回忌をやろうとした時に、どんなことが思い付きますか。指を折って数えてみましょうか。すぐに十本の指じゃ足りないくらい出てきちゃう。でもこれだけやらないと、法事ができないと思ったらどうでしょう。法事やるのを諦めようか、となっちゃうでしょ。でもそれだと困っちゃいますよね。今日のテーマは「あきらめる」ですけど、法事をせっかくやろうと思ったのに、諦めたらもったいない。
そうならないために、やることを書き出していくのです。(項目を書いた紙を貼りながら)「日付」を決めなきゃいけないよ。「交通手段」も考えなきゃいけないよ。「お花」もお供えするんだってさ。「お位牌」ですね。「案内状」も送らせてもらいましょうね。「お墓掃除」もやりますよ。誰が来るのか「招待者」もまとめておかないといけません。「お塔婆」の申し込みも早めにしてあげて下さい。あと「礼服」ね。それから「お食事」。「お布施」はいくらにしましょうか。「引き出物」は何にしましょうか。
書き出しても、これをただ並べただけだと大変なのです。それで、ここからさっきお話しした、「3つに分ける」を始めますよ。書き出したことを、「必ず」「できれば」「やりたい」のどれかに分けます。じゃあどれにしようかな。例えば私の場合では、お食事。お食事は絶対に出さなきゃいけないものでもないですよね。「できれば」に貼っちゃいます。できるなら、お食事を出してあげたいということです。お塔婆はとりまとめておかないと、お寺さんとのやり取りでも困るから「必ず」やらないといけないことかな。お塔婆の有る無しを含めて連絡はしなといけないだろうなとか。それから墓掃除。今日の話の趣旨からするとこれはお坊さんとしては「必ず」に貼りたいのですが、極端に言えばお墓が汚くてもお参りはできる、本当はだめなんですよ。交通手段の案内は、もう子供ではないの
だから勝手に来てくれよと思うから
「やりたい」ことに貼っちゃいます・・・
こうして分けると、だいぶ少なくなりましたね。「必ず」に残ったのは「日程・お位牌・お布施・お塔婆」、これなら何とか法事ができそうな気がしませんか。この4つでも大変なら、順番を決めてあげると良いですよ。どれを一番先にするかと言ったら、日程調整をまずしなければいけない。お寺さんと施主さんで日にちが決まり、誰が来るのかが分かって、その後にお塔婆お申し込みするかどうかをまとめる。最後に、お位牌。前の日に掃除したって良いのです。これで順番が付けられますよね。「できれば」と「やりたい」は、やらなければいけないことではないので、極端に言えばこの4つさえ、しかもこの順番にやっていけば、ご法事ができる。そう思ったら何となくできそう。さらに余裕があれば「できれば」に貼ったことも少しずつやっていってあげよう。お墓掃除は自分でやるのが一番心も籠もるけど、どうしても暑くて大変なら孫にやらせてみるのも良い勉強になります。お食事も豪華な箱膳を出さなくてもお弁当の『持ち込み』で、おひとり千円ぐらいで済ませたとしても良いと思います。そうやって亡くなった方を囲んで食べる風習は残るし、年金で細々とやっている中で皆さんに振る舞うなんてなかなかできないことだから、ご法事をしなくなるよりも、こういうふうに工夫しながら、たとえ質素であっても営んでいただけたらなと思います。

<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>

(2014/9/11「いのちを見つめる集い」より)


RETURN