原日本人の宗教感― 神様、魂、そして御先祖様とは [232回 H26/4/24]
講師:鈴木 曉仁 師 真言宗豊山派 筑波山一乗院 住職
講師プロフィール:
真言宗豊山派本山特派布教師
真言宗豊山派総合研究院指導教授
日本に仏教が伝来する以前、日本人はどのような宗教感を持っていたのか、そしてそれはどのような人の意識や文化として今日につながり、仏教とどのように結びついてきたのかを語る。

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<講演録>

■宗教感とは
日本人の宗教感ということでお話ししていきたいと思います。よく宗教「かん」とか人生「かん」というと、漢字は「観」と書きますが、私は敢えて(この講演では)「感」を使います。「観」は論理的に冷静に見た時にこうなるよという字ですが、論理はともかく、どう感じるかというお話をしていきたいので「感」という字を用いました。これは理屈じゃない世界があるからです。我々のDNA=遺伝子の中にどういう感覚が入っちゃっているのか。そんなことをちょっと考えていただくお話にしたいと思います。

■風土が築く文化の基本的性格
まず、その土地柄の中で、宗教も含めたいろんな文化が形成されてくるというお話をします。我々が何気なくやっていることの中には何千年、何万年という歴史の積み重ねの中で出来た文化があり、その土台の上で我々は動いています。
例えば、東洋と西洋のものの食べ方では何が一番違うでしょうか。「使う食器」ではなくて、食べ方に注目して下さい。例外はありますが、東洋の食べ物は器を口へつけます。西洋の食べ方は口へはつけません。スープだって、わざわざ皿にタポタポやっといて、スプーンで音を立てないように口の中に入れろと言うでしょ。ああいったものは丼ぶりに入れてズズッと啜った方がよほど美味いと思うのだけどもネ。
これは風土が築く文化の基本的性格というものです。知らない間にこういう差が出てきている。どうしてでしょう。これは気候の差なのです。西洋には台風がありません。東洋には台風があります。台風というのは、沢山のいたずらをしますが良いこともあります。川が氾濫することによって、山の上から沢山の肥えた土と種籾を届けてくれます。
西洋は、西海岸海洋性気候と言いまして、まあ少し霧っぽいとこはあるのですが、毎年こんにちはってやってくるような熱帯低気圧なんてものは来ません。そのため、氷河期に氷河が削り取った、非常に痩せた土地が中心です。ドイツの名産といえばジャガイモですが、これはアンデスの山の中で岩場の間でもできた芋です。フランスのシャンパーニュ地方、葡萄が名産ですが、葡萄は肥沃な水気のたっぷりある土地だと枯れます。穀類ができない場所に葡萄はできます。ヨーロッパとはそういう大地だったのです。それを人間の英知、努力で今日のような肥沃な大地に変えていきました。
東洋には台風があった。そうすると上流から穀類の種籾が流れてくる。そこで麦や米などの穀類を東洋は早く手に入れました。保存がきくという利点もあるが、穀類にも難点があります。生(なま)では食えない。どうやっても煮炊きをしなきゃならない。そこで東洋の人間は、様々な土器を作って煮炊きすることを早くに発明しました。煮炊きをする=今のお粥のようなものがスタートだと思って下さい。それで食事の道具を発明するまでは、その煮炊きをしたものを食べるため、当然直接器を口へつけなきゃ食べられないのです。
西洋は農耕社会に移るまで、時間が長くかかり、それまでは狩猟生活で、後に牧畜生活へと移ります。牧畜生活の中で、肉食中心の食生活になりました。肉は、穀類と比べると保存が利かないのです。そんな中で保存方法を考えたのが、薫製や干し肉です。これをナイフで削って分け合い、それを手で取って食べた訳です。後々、いわゆる食器と呼ばれる、陶器や陶磁器が生まれてきても、最初に分けて食べた肉の食べ方からは離れることはできない。だからスープだろうが、パスタだろうが、器を口けてズズッと啜るということはありえない。
私たちはこうしたスタートの遺伝子を知らない間に持っているのです。理屈の世界じゃありません。皆さんだって食べ方の問題に移ると、味噌汁出されりゃスプーンでと考える人はまずおらず箸を持つか持たないか、下手するとそのままズズッとやりますよ。そうするものだと思っている。それこそ私が言った「感」の世界なのです。風土が築く文化の基本的性格というのは、このように風土というものが違ったものを色々と生んでいくのです。
そういうことから言うと、一神教と多神教の違いも、ある意味で風土の中にあります。多神教、仏教で言えば原点はこれ、お釈迦様はインド。ヒンドゥー教も中国の道教など東洋の宗教は多神。これはある意味で裕福な、物が色々ある所の宗教なのです。物が色々とある所で生まれたものというのは、色々な価値というものをそれぞれ見いだしましょうという見方になるものです。ところが、回教もキリスト教も、その原点となったユダヤ教も、砂漠の宗教なのです。人間が生きていくのにどうしたら良いかと真剣に考えなきゃならない過酷な所で生まれた宗教なのです。だから宗教も文化の一部として考えてほしいと言ったのはそこなのです。過酷な環境で人が生き延びるために、大げさに言えば、強固な集団制と鉄の規則が必要になってきます。そのためには価値の基準は一つであった方が良いのです。だから絶対唯一なる神ということが基本になって、一神教が生まれてきます。もちろん例外はあります。でも、大原則という意味で聞いていただきたい。それは風土が築く文化の基本的性格。そういう違いがありますよというこころまでが前置きです。

■日本人の信仰感の原点
○日本人にとって「カミサマ」とは
どういう信仰感の特色を持いるのかという話から始めたいと思います。日本人の言う神様とは、キリスト教やマホメッドの神様と違い、言葉にするのが難しいような神様です。色々な自然界のエネルギー、この集まりが神様です。「気(き)」、中国で気功なんていうものがありますが、目に見えない不思議な力です。その「気」の集まりが、日本人にとっての神様です。自然界にある、ありとあらゆるエネルギー、そういうものが神様で創造主ではありません。水が滔々と流れてくる、これは何か不思議な力がここにある。これは水神様になります。山には沢山の恵みがある、山には不思議な力がある。これは山の神になります。   
ヨーロッパの一神教、中東の一神教は、造物主です。人間も大地も、全て神様が創った物です。ところが日本人にとっては、色んな「気」、これは霊魂と言われる場合もあります。そういう物が集まった世界が神なので人間とある意味で平等です。
日本書紀や古事記を読むと、日本の神様というのは本当に色んな喧嘩したり、浮気したり、人間臭いでしょ。ところが神様一人しかいない世界では、全ての物を創っちゃった人ですから喧嘩するったって一人じゃできない。ここの決定的な違いがあります。日本人にとっての「カミサマ」とは、不思議な力「気」の集まりであると思っていただければよいです。

○「ケガレ」と「ハライ」
神様の力を貰っても我々の側、人間なり生きとし生けるものの側が、何かまずいことやってしまう、そのことをケガレと言います。そのケガレというのは、「穢(え)」という字を書くと思いますが、これは草が枯れて、腐っている状態を指す漢字なのです。
神様の持っている不思議な力、これが気(き)というエネルギーで、ケガレという言葉の大本は、その力が枯れてしまう状態、気(き)(け)枯(が)れを言います。そうなると大変だから、元の状態へ戻す。その戻すやり方がハライです。つまり、ケガレは悪であって、ハライは善であるという格好になってきます。
祓う方法を日本人は色々な呪術的要素をもってやってきた訳です。例えば箒で掃くのも祓いです。それを様式化すれば、現在の神社のお祓いになります。また、塩もよく使います。海を渡ってきた日本人は、海は神聖で、海で取れる塩というのはその穢れを祓う霊力を持ったものと考えました。とんでもねえ野郎が来たものなら、「おまえ塩撒いとけ。」と言いますね。これはまさに穢れを祓うということで、あんなのが来ると自分の気が枯れるから、塩撒いて蘇らせようという意味です。
つまりケガレというのは汚れたものという意味ではなく、自分の持っているエネルギーが無くなるのではないかと。恐れでありこのエネルギーを元のように戻すためには、祓いというものが必要だと。こういう二極を、日本人はその神様として見た自然界のエネルギーに対して持ってきました。こういうことは、理屈じゃなく身体の中に入っているのです。

○「恵み」と「祟り」
自然界の力とはプラスにもマイナスにも働きます。その両方があるのだということを日本人は共に受け入れるようにしてきました。そこで様々な「気」、自然界の力に対して、人間にとって良いことは多く、悪いことはできるだけ少なくして下さい。そういう祈り方をするようになりましたので、一つのことに必ずその両面があるよと考えた。紙の表だけを欲しいと言っても、それはできませんよというのが人類、ことに日本人はこのことが心底まで染み付いています。
一番良い例を出します。全国どこへ行っても雷神様って神様がありますね。稲が育ち盛りの時に一番水を運んでくれるのは雷で、すごい恵みなのです。でも、一歩間違うと、火事は起こす、どっかーんと落っこちて人殺しまでする時も。だから、祟りでもある訳です。ピカピカする雷光、あれを稲妻といいますが稲の奥さんと書いてある。元々日本語でいう「つま」というのは、無くてはならないものを「つま」というのです。例えば、爪楊枝は食事になくてはならないものという意味で、同じなんですよ。
元に戻りますが、雷というものがあったお陰で稲が何とか実ることができた、畑の作物が取れることになった。この恵みの部分を沢山下さい、と同時に祟りの部分は少なくして下さいという、そういう祈りを捧げるというのは日本人の信仰感の中心にあります。



<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>



(2014/4/24「いのちを見つめる集い」より)


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