「生老病死」『生』きるための芸〜津軽三味線〜 [229回 H25/12/12]
講師:磯田 浩一 師 曹洞宗 慶昌院住職
講師プロフィール:
大本山総持寺にて修行ののち、
二輪教習所インストラクター、フランス料理コック、学習塾講師を経て慶昌院住職就任。
大学時代は久保田利伸と共に「HOTTENTOTS」にてバンド活動の経験がある。「津軽三味線 小山会」に所属し、会員活動として北島三郎氏のバック演奏や東京ドームで吉田兄弟と共に演奏をする。

「生」は「生まれる」と「生きる」の両意を持つ字です。
生きる為、生業としての楽器だった津軽三味線を通じて、魂の話をさせて頂きます。


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<講演録>

 今日は津軽三味線を使って「津軽三味線法話」と言う形でやります。

 まずは皆様方に津軽三味線「津軽じょんから節」をお聞きいただきました。
今日のテーマは生老病死の「生」と言う字で頂戴いたしております。生と言う字は「生まれる」という字でございますが、「生きる」という意味も持っております。
外国語、たとえば英語をはじめとしてフランス語、ドイツ語、スペイン語など、その「生まれる」という意味と、「生きる」という意味の両方を一つの字で具えているという単語は、今申し上げた言語の中にはありません。特にこの生きるという字は「生まれたら生きる」と言う意味が一つになっているのではないかなと思う次第でございます。

 私は一ヵ寺の住職をしております。静岡県富士市、富士山の真南のちょうど裾野の一番南の端にお寺が佇んでおります。静岡の普通の田舎の小さい寺でございますけれども、ご縁があって津軽三味線を弾くことになりました。その津軽三味線と言うものが複雑な歴史を持っており、その辺りからお話ししたいと思います。
 津軽三味線を説明するにあたり、この楽器が蔑まされた身分の方々の間で出来てきたものでありますから、そのような用語、もしくは言葉をどうしても引用するかもしれません。それがなかったらこの津軽三味線と言うものは生まれなかったのではないかと言えるぐらい大事なものでございますので、津軽三味線をお知りいただく上で、ご容赦いただきたいと思います。

 資料として、この津軽三味線の簡略の系譜と裏側に「仁太坊(にたぼう)」の歩みと言うものを先ほど配布しました。その津軽三味線の簡略系譜の左下の方に、「大條和雄【津軽三味線物語始祖 仁太坊】より」と書いてあります。これは青森県弘前市の大條和雄さんと言う方が津軽三味線の歴史やいろんなものをご自身の足で歩き、半世紀以上かけて本にまとめたものの一部です。
そしてこの方が津軽三味線の歴史を世の中に知らしめた第一人者でございます。

 津軽三味線と言うのは、元々津軽の三味線というふうに言われていたようです。要するに津軽流の三味線の弾き方です。それが東京オリンピックの頃に東京に『オリンピックが来るから』と青森の三味線演奏家もたくさん上京してきたのと同時に、三橋美智也さん等が歌会をコンサートホール、またテレビやラジオで演奏されるようになりました。それで津軽の三味線というのが津軽三味線という一つの地位をいただくようになったわけです。
 それまでは本当に特殊な弾き方をする三味線でした。一般的に三味線と言うとチントンシャンと弾くような、ガンガン叩いてやるようなものではないのですが、それでもやっぱり聞く人は「おや?これはなんだろう?でも、あれは邪道な三味線だ。」と気になります。私たちは今「派手」と言う言葉を使います。これは派閥、もしくは派生の派です。
もともとは破るという字を使って「破手」と表したようで、「本手」に対して「破手」、要するに型破りなんです。津軽三味線はまさにその破手の弾き方でございました。
 津軽地方で三味線と言えば、冬の何も農業が出来ない時期に三味線を持って、それぞれのお宅に回って一曲いかがです?と言うような「門付け(かどづけ)」が行われ、一曲を弾いたり歌ったりしてそれでお米や野菜、お金をもらったりして生業にしていた方々がいましたが、その方々の事を「ほいど」とも呼んでいたようです。元々は祝い人と書いて、「言祝ぎ人(ことほぎびと)」と言うような言葉がありましたが、その言祝ぎ人が短くなって「ほいど」になりました。

 例えば、三味線を弾いて、結婚式とかお祝いごとを盛り上げて演奏した方がいましたが、そういう楽器を弾いていた一部の方がいわゆる身分の蔑まされた方々であったと言われております。その「ほいど」である三味線弾きの人を「坊様」と書いて「ぼさま」と言います。その坊様三味線というのが津軽地方では門付の三味線の別称で、坊様三味線、ほいど三味線、それで生計を立てていたから乞食三味線と言われていて、蔑まされたわけでございます。

目の不自由な男性は、坊様になって三味線を弾いて門付をしたり、女性は家の手伝いをしたり、巫女さんみたいなことをする立場の、「いたこ」の職業に就いたりというようなことが津軽では当たり前とされておりました。いずれにせよ、目の不自由な人は普通の人の職業に就けなかったという状況があったわけでございます。
今私が弾いた津軽じょんから節ですが、この弾き方は本当に一人の三味線弾きから始まりました。その系譜が、この津軽三味線の簡略系譜というのに乗っていますが、一番上の「仁太坊」と言う方でございます。仁太坊は一八五七年、安政の四年に生まれ、八歳の時にその頃津軽で流行った疱瘡、天然痘で盲目になりました。仁太坊のお母さんはもう既に亡くなっていました。このお母さんがどうやら三味線弾きだったようで、家に三味線があったという事で、小さい時から仁太坊は三味線を弾くようになったようですが、他に生業がないものですから、これは「ほいど」になるしかないと三味線を続けていたわけです。

藩政時代、盲目の方々は藩から厚い保護を受けておりまして、盲目の男性の芸能集団「当道座(とうどうざ)」と言うものがございました。これは男の方だけですが、江戸時代にそういう集団があることによって目の不自由な方は仕事に就くことが出来たようです。


<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>




(2013/12/12「いのちを見つめる集い」より)

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