[生老病死]『病』「病苦の景色が変わる」という解決 [227回 H25/10/10]
講師:三橋 尚伸 師 浄土真宗大谷派 僧侶
講師プロフィール:
心身の病に苦しむ人々との長年の交流を通じて、様々なことを教わりながら、医療界、仏教界、企業、官公庁などで講演・研修を行うと共に、僧侶カウンセラーとして医療現場にも関わる。面接や電話でのカウンセリングの他に、病院と提携して医療従事者のメンタルヘルス・ケアの為のカウンセリングも継続いている。
仏教とカウンセリングの融合を通じて、人間が本来持っている成長力が復活出来るよう、援助したいと願っている。

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<講演録>

 皆さま、こんにちは。
シリーズで生老病死をやっているんですよね。私は病の担当なんですけれども、それだけがぽつんと別個にあるわけではないので、他とだぶるところがあるかもしれません。
 今、日本の病の現状は非常に厳しくなっています。医学的には病を持ったまま生き続けることができる状況になり、死ぬに死ねない時代に突入してるんですね。これは、病気になって死ななくてはいけない苦しさを抱えていた昔とは、また別の苦しさが起こっている訳ですね。病気で外見が著しく変わっても生きていかなきゃいけない。或いは、家族や他人に迷惑をかけてまで私は生きていて良いのだろううか。今こんな苦しみが多くなり、医療従事者もまた悩んでいます。私がこういう格好をしていくと、患者さんも家族も私がお坊さんだなってわかるでわけです。そうすると「何で生きてなきゃいけないんでしょうか。早く殺して下さい」って、頼まれるわけです。生きていなければいけない意味、これを問うスピリチュアルな霊的な苦痛というのが今とても増えています。

 今の日本で重篤な病気にかかるとどういう状況になるかというと、医療の主導権は自分ではなく家族と医者になります。本人の意識レベルが下がり判断能力が劣ってきた時に決定権を持つのは家族なんです。ここでまず一つ問題があるんですね。
家族と患者さんの関係が良ければよいのですが、そうじゃない家族もたくさんあるんです。関係性が悪い家族、普段話もしたことが無い家族。その中で、医療の決定権を家族が持つんですよ。
 もう一つは家族と病人の思いが異なるという事です。これはとても多く、さっき言ったように、本人はこんな姿になってまで生きていたくないって思っていても、特に家族関係が良いと、家族は一日でも長く生きてほしいって思うわけです。もうここで違っちゃうんです。そこを誰が調整するんでしょうか。また日本では上下関係がまだあって、例えば医者は上とみられ、そこで家族や医療従事者から医者の言う事を聞きなさいと服従することを求められる。
 そして、最近は病院や施設などに入るのに三年待ちとも言われています。それまでに病気で死んでしまうかもしれない。でも待たなければいけない。お金を持っている人は待たなくても良い所に入れるかもしれないけど、現実には大抵の人が待つ。その間を患者さんがよく言う言葉を使うと『家族のお荷物』になって嫌でも面倒を見てもらうわけですよ。そしてやっと入れた病院も三か月で転院しなければいけないと、病気になってもこういう事実を生きなきゃいけないんですよ。
 私が行っているところは、長期療養型の病棟と緩和ケア病棟、そして緊急の病棟と三つありますが、長期療養型の病棟には、お家ではとても面倒見きれない状況の患者さんが大勢いらっしゃいます。その中には「胃瘻(いろう)」といって口からご飯を食べられない場合に、胃に穴を開けて栄養のあるどろどろの物を直に流し込むんです。
これは病人自身ではなく、多くの場合は家族と医療従事者でそのように決定しています。胃瘻を作ればそれまでのような食事の介助はしなくていいし、誤嚥の危険も無くなります。『本人の意思はあまり反映されない』というこういう状況を私たちは生きていかなければならない。

 世間は現世利益的な考えで、病気は何とか治す方法を考えればいいじゃないかと考えてあれこれ工夫したり医療行為を行うわけです。それで治る場合もあるけれど、治らない場合もある。その事を仏教では『四苦八苦、一切皆苦』と教えてくれているわけです。
この世のすべては皆苦である、でも普段は皆、お坊さんも忘れちゃってるんです。
自分の努力が適当に効いている時には、お釈迦様の言っている事は嘘でしょうって思うんですよ。病気は治ったし、お金には困ってないし、好きな所へ行けているし、この世は全然苦じゃないじゃないって思うんですね。それで本当にこの世は苦だったと思うのが大きな不条理に出会った時です。本当に後戻りできない状況の重篤な病気・事件・事故・災害・死なんですね。そこで初めて本気で立ち止まるんです。

 私がすごく衝撃を受けた良い標語があります。私たちは普段、自分の一部が煩悩だと思っているわけです。私の基本は善でほんの一部だけ煩悩があると。まずい時だけその煩悩が出るって考えているんだけどその標語はそうじゃなくもっと厳しかった。
「私の煩悩」ではなくて「私が煩悩であった」と書かれていましたがこれが事実だと思います。煩悩で出来ているのが私なんですよ。
 この私がすべて苦だっていう不条理な世の中を生きていかなきゃならない。
不条理っていうのは自分の努力が及ばない・納得のいかないことが不条理なので悔しくてしょうがないわけですよ。私たちは煩悩で出来ていますから欲がありますね。
貪瞋痴(とんじんち)の貪欲。欲で出来ているんです。「もっともっともっと」と欲が出るわけです。もうちょっと生きていたい、「もうちょっと楽に呼吸したい。」「もうちょっと痛みを軽くしたい。」当たり前ですがこれ全部欲ですからね。
良いとか悪いとかじゃないですよ。これで出来ているのが「私」と言う事ですよ。
 けれど中々自分の希望通りうまくいきませんね。そうすると怒りが湧いてくる健康な人を見ると憎しみが湧いてくる。これが瞋恚です。貪瞋痴の二番目の瞋恚(しんい)。
いつも誰かと比較するんです。



<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>




(2013/10/10「いのちを見つめる集い」より)



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