「生老病死」『老』お寺のデイサービスの実践を通して [226回 H25/9/5]
講師:成田 智信 師 浄土真宗本願寺派 善了寺住職
講師プロフィール:
お寺の庫裡建物を改造利用し、事業主体は宗教法人のまま介護保険事業所の
正式認証を受け、お寺のデイサービス『還る家ともに』を開設。
お寺は生老病死と共に向き合い、誰もがいつでも還ってくることのできる場所で
ありたいとの願いのもと小規模ながらも利用者、スタッフともに生きる深さと
豊かさに出会えるサービスを提供している。

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<講演録>

 最初に浄土真宗の御教えの御文を頂戴させて頂いてから、お話の方に入らせて
頂きたいなと思います。

 ―人生そのものの問い―
「日々の暮らしの中で人間関係に疲れたとき、自分や家族が大きな病気になったとき、
身近な方が亡くなったとき、人生そのものの問いがおこる。いったい何のために生きて
いるのか、死んだらどうなるのか。この問いには人間の知識は答えを示せず、積み上げ
てきた経験も役には立たない。目の前に人生の深い闇が口を開け、不安の中でたじろぐ
とき、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。親鸞上人は仰せになる。
弥陀の誓願は無明長夜のおおきなるともしびなり。必ずあなたを救いとるという
如来の願いは、煩悩の闇に惑う人生の大いなるともしびとなる。このともしびを
頼りとするとき、何のために生きているのか、死んだらどうなるのか、この問いに
確かな答えが与えられる」

 こんにちは。本日は雨の中、また天候も不安定な状態の中で、大勢の皆様にお集まりを頂き、ご法縁を頂けます事、本当にありがたい事でございます。
 今日は「老」というテーマを頂きまして、私自身が、お寺でデイサービスという介護保険事業所の御縁を頂いているという、実践の中から少しお話をさせて頂こうと思います。
 私は、横浜市戸塚区にございます善了寺というお寺で、住職の御縁を頂いております成田と申します。どうぞよろしくお願いを申し上げます。

 今日、こうして御仏の前で集うというご縁を頂戴させていただきましたが、私も本当に不思議なご縁で、デイサービスという介護保険の事業所を、スタートさせるというご縁に恵まれました。
 「老い」という事と向き合っていくというのは、絶対他人事ではないんですね。
私たち一人一人が受け止めていく事ですから、何か向こうの先の方の事で、私は まだ若く、年を取ってから――というよ うな世界ではないんです。命の在り様として受け止めていく、自らの事としてとらえていく。何度も何度もこういうご法話の場、お説教の場で聞かされている事だと思いますが、中々そうはならない。
そんな時にお身内の中でね、本当に老いという事を受け止めていかざるを得ないような状況が出た時に、「そうか、うちの元気だったお父さんやお母さん、そういう歳になっていたんだな」とハッとする。そういう事を身近でとらえた時に初めて自分の問題になっていく、そんなところもたくさんあるんじゃないかなと思います。
 そういう場っていうのは、やっぱりご縁の中で頂いていくんだなぁと、思わずにはおれない事でございます。老いの事を考えなきゃだめだ、生老病死を考えなければ人間でありません。なんてね、そんな事言われても中々できない。縁があれば病に迷い、縁があれば死の前で恐れおののかなければならない。生まれるという事も、まさに今、この時代に生て良かったねと言い切れない。そういった時代のあり方が、今あるのではないでしょうか。
 「本当にこの世に生まれてきて良かったね」と、子供たちを温かく迎えられるような社会なのかと問うてみれば、生まれるという事そのものが、やっぱり大きな苦しみなんだとお釈迦様がお説きくだされた。その生という事の重みっていうものをまた、思わずにはおれない時代ではないかなというふうに思います。
 それはまさに東日本の大震災以降、三・一一以降の社会のあり方という事を取り上げるまでもありません。皆様一人一人が、実際の生活の中で実感されているのではないかなと思われます。
 実は私の善了寺はですね、山なんですね。JR戸塚駅から歩いて七分くらいのところにあります。旧東海道戸塚宿、まさにその大名行列が通っていた東海道のすぐ脇に、もう四百年前からあるお寺なんです。山一つ墓地も一緒になってるお寺なんですが、山なんですね。ですから御本堂にお参りする時にですね、坂道階段を上がって来なければならない。元気な時は趣きがあって、「あぁ、お寺の山門をくぐって階段上がっていいなぁ」というような事もある訳ですが、ある御門徒の方が、「お寺の坂道が上がれなくなったらおしまいよね」と、いうような事をボソッとおっしゃったんですよ。元気な時はお参りできても、自分が歩く事もできなくなって、自分自身の中で老いを迎えなきゃいけないというような現実があった時に、もうあの坂道があるからお寺にお参りできない――。
 そういうふうに言われた時にですね、お寺っていうのはそういう場じゃないんじゃないかなぁ、むしろそういうふうに辛くなった時だからこそ、ぜひお参りいただきたい。
 そういう思いが、坊守と一緒にデイサービスを始めていく第一歩になったんです。それを言ってくれたおばあちゃんというのが、実は通りを一本挟んだところにいたおばあちゃんだったんですね。今はもう往生されて、その土地もセブンイレブンになってしまっているんですけれども、その通りを挟んで向こうにいたおばあちゃんが、そういうふうにおっしゃっていたので、やっぱりそこでお寺を預かる者として、一歩踏み出せないだろか、そんな思いの中で始めさせていただいたというのが大きなきっかけなんです。

 おばあちゃんの一言から始まりました。大変な時だからこそお寺に来てほしいと思ったんです。やっぱりその時に思ったのは人の命を預かるという重みでした。
 坂道を上がって来られないという事はなんらかの不自由な面を抱えているというふうに思っていいんですね。足が痛かっただけでない。そこに色々な面で、身体的な問題というものを抱えている可能性があるというふうに見ていいわけです。しかも月に一回だけ迎えに行けばそれでいいのかというと、本当はそうじゃないんじゃないかなって。具体的にその人の生活にクローズアップすればするほどこういう事も大事、ああいう事も大事、実
は娘さんと離れて一人で暮らしていたっていうのが判るわけです。
 じゃあ、独居で暮らしている中で本当に日々のサポートっていうのはどんなものが必要なんだろうか。そんな事を考えてみますとね、お寺だけじゃ無理だよね、って話になるわけですよ。いろんな問題が見えてくるけど、お寺だけで動こうなんて思ったら、そりゃ無理じゃないかって一回挫折するんですね。

<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>




(2013/9/5「いのちを見つめる集い」より)

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