「般若心経 日本VSインド」正木 晃 [225回 H25/5/23]
講師:正木 晃 氏 宗教学者
講師プロフィール:
筑波大学大学院博士課程修了。国際日本文化研究センター客員助教授、中京女子 
大学助教授などを経て、現在、慶應義塾大学などで講師を務める。専門は密教学・
チベット密教。特定の分野・宗派にとどまらず、わかりやすい仏教全般の解釈に
定評がある。『空海をめぐる人物日本密教史』『はじめての宗教学―「風の谷のナ
ウシカ」を読み解く』など多数。

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<講演録>

 簡単に自己紹介をさせていただきます。
本来の専門は宗教学。中でも仏教で、特に密教の系統が研究の中心です。
もともとは日本密教が専門だったのですが、三十代の後半の時に、ダライラマ猊下にたいへん近い関係にあるツルティム・ケサン先生(現在は大谷大学名誉教授)に、「私とあなたとは前世では兄弟だった」なんて変な口説かれ方をされ、チベット仏教を研究することになりました。以来ちょうど二十回、チベットヒマラヤ界隈をまわりました。もう少し具体的にいいますと、中央チベット(現中国領)が十二回、そのほかネパール、ブータン、スピティ(インド領チベット)をたずねました。そして、2000年の初秋には、西チベットの奥地にある最高の聖地、カン・リンポチェ(カイラース)というところに巡礼に行ってまいりました。

般若心経が成立した時代
 さて、本題に入ります。般若心経というお経が成立したのは、西暦でいうと300年くらいから350年くらいの間になります。日本では、弥生時代の終わりから大和朝廷が成立してくるような、そんな時代の話です。いいかえると、1700年前くらいの話です。
近年の研究では、ブッダが活動されていたのはだいたい紀元前400年+αくらいですから、そこから計算すると、700年から750年くらい経過しています。このようにけっこう間があいていますから、ブッダの直接の説法でないことは確かです。もっとも、大乗仏典そのものがブッダの直接の説法でないことはもはや常識ですから、いまさら指摘するまでもないことかもしれません。

 現存する最古の大乗仏典は八千頌般若経です。成立したのは1世紀ころといいますから、2000年前のことです。「頌」というのは、32音節を1行としたときに、8000行あるという意味です。今でもそうですが、古代からインド人は数学が得意でしたので、そのお経が何行あるかという点にもとづいて、そのお経の名前をつけたりしたのです。この八千頌般若経の場合、ボリュームからすると、単行本で二冊くらいになります。長いといえば長いのですが、華厳経などに比べれば、まだ小規模です。ちなみに、法華経も八千頌般若経とほぼ同じくらいの量です。成立した時期からすると、いちばん最初に八千頌般若経、そのちょっと後くらいに法華経が成立したようです。さらに、華厳経とか無量寿経が成立したと考えられています。このあたりまでが初期の大乗仏典です。
 
 時代が経過するにつれ、さまざまなタイプの経典が出現してきます。勝鬘経とか涅槃経楞伽経とか、続々と出てきます。これらが中期の大乗仏典といわれているものです。さらに五〜六世紀以降になると、大乗仏教は密教化の方向へ向かい、七世紀にいたって大日経や金剛頂経などが成立します。これらは後期の大乗仏典になります。

 では、般若心経はどうか?というと、中期大乗から密教に移行する、ちょうど端境期くらいのところに位置しています。ですから、密教学の頼富本宏先生いわせれば、般若心経は明らかに密教経典です。般若心経が密教経典という根拠は、成立した時期だけではありません。内容的にも、密教経典だと頼富先生は指摘しています。すなわち、般若心経がもっとも主張したいことは、末尾にある「羯諦羯諦・・・・・」という呪文を唱えなさい。呪文を唱えることによって悟りが得られますよという点にある。これは明らかに密教的な発想だと頼富先生はおっしゃっています。確かに、前半は難解な理論編ですが、後半の実践を説く部分はいかにこの真言陀羅尼が素晴らしいかということを、いわば列挙することに終始しています。そういう意味からすれば、般若心経が初期の密教経典という指摘は、正しいでしょう。

理屈を超える要素
 考えてみれば、呪文的な要素は、末尾の部分だけにとどまりません。般若心経全体が呪文なのです。多くの宗派で、とにもかくにも万能の呪文としてこの般若心経を唱えます。意味はどうでもいいのです。

 ご存じかもしれませんが、日本のお経で、唱えていると元気になるお経は二つしかありません。いうまでもなく、この般若心経と、もう一つは法華経です。一般的な傾向として、お経は唱えていると、心が落ち着いてくる。静まってくるのが普通です。ところが、この二つの経典にかぎっては、じつに不思議なところがあって、読んでいると、理屈抜きに元気になるのです。少なくとも、こういう面をまったく無視して、般若心経を論じることは不可能です。

 実例をあげましょうか。地下鉄東西線の門前仲町という駅を降りるとすぐのところに、深川不動堂があります。真言宗のお寺で、成田山新勝寺の東京別院です。ここでは一日に五回、護摩焚きをいたします。正月には七回も護摩焚きをします。その護摩焚きでは、ご本尊の不動明王真言はもちろんですが、法華経の中の観音経と般若心経を唱えます。大太鼓を三つも、それも全力で叩きながら、護摩焚きをするのです。ものすごくパワフルで、日本一という声もあるほどです。なかでも、般若心経と観音経の部分がいちばん聞きごたえがあるというか、体を通して心に響いてくるというか、とにかく意味がわからなくても、ただひたすら呪文として聞いているだけでも、まことに心地良いもので、元気になってきます。

 これはとても重要なことです。仏教を学ぶというと、とかく思想とか哲学の面ばかりに焦点が当てられがちですが、ほんとうはそれがすべてでは絶対にありません。いうならば、理外の理というか、思想や哲学以外の要素もひじょうに大きいのです。たとえば、「経力」といって、特定のお経を、たとえ意味がわかなくても、唱えるだけで、なんらかの功徳がある。極端なことをいえば、唱えるどころか、ただ持っているだけでも功徳があるとか、救われるという考え方があります。いや、考え方ではなく、実際に救われることすらあるのです。

 これはなにも日本に限りません。昨今、よく話題になるブータンでも、そういうことが多々あります。いま、あの国では、首都にある国立の機関が、地方のお寺さんの大切な経典を保管する措置が講じられているのですが、お祭りのときになると、地方からわざわざ首都までやってきて、その経典を戻してもらうのです。理由を訊くと、その経典がないと、お祭りが始まらないからです。ようするに、そのお経がないと、悪魔や魑魅魍魎が来てしまうというのです。つまり、お経そのものにそういう霊的なパワーがあると信じられているわけです。重要なのは、経典が説く思想でもなければ、哲学でもないのです。まさに経典の存在そのものが、なにより重要なのです。現代人はこういうことをバカにしがちですが、それは明らかにまちがっています。



<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>


(2013/5/23「いのちを見つめる集い」より)

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