『身体で聴く般若心経』大童法慧 [223回 H25/3/28]
『身体で聴く般若心経』
講師 大童法慧 師 曹洞宗大本山総持寺 殿司兼講師

講師プロフィール

19 6 9 年山口県周南市(徳山)に生まれる。2 0 歳の頃、大切な人を亡くした絶望から
「生きる意味」を求め、福井県仏国寺の原田湛玄老師のもとへ通い、参禅をつづける。
駒澤大学仏教学部禅学科を卒業後、27 歳で出家得度。大本山永平寺にて安居修行。
「仏のものの見方」を広めるべく、さまざまな活動を展開している。總持寺の座禅会
「禅の一夜」は多くの参禅者を集めている。

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<講演録>

「身体で聴く般若心経」というタイトルでお話をさせていただきます。

身体で聴くというのは、頭で理解するだけではなくて、この身体でもって般若心経を聴いてみましょうということであります。
仏教という学びのステージからもう一歩進んでいただいて、仏道という実践のステージに歩みを進めてみてはいかがですかと提案したいのであります。
今日の講義がきっかけとなって、「あー坐禅でもしてみようか」という気持ちになっていただければ、と念じております。

般若心経の般若の智慧というのは本当のこと、真実を見る力、働きなのであります。

だから、他人の言葉に引きずられたり、現れた出来事に振り回されたりしない力、その働きというものが、私たちには生まれながらにして備わっているということであります。この般若の智慧があると信じ、気づき、体現していく、これが仏道です。

知識と智慧は違います。知識というのは獲得していくものです。つまり外にあるものを得る、獲得していく、これが知識です。でも、般若の智慧というのは私たちに、生まれながらにして備わっているものであります。そう、智慧は私たちの中にあるのです。それを現わしていくということが、身体で聴くという意味です。

「般若心経で大切なのは色即是空空即是色じゃない。大切なのは、無眼耳鼻舌身意だぞ」と私の師は示されました。無眼耳鼻舌身意というのは、眼も耳も鼻も舌も無い、この身も心も無いと、これが一番大切なところだと言われても、どうでしょうか。

修行の世界に飛び込んだばかりの頃、自分という塊は無いぞと師匠から言われました。この自分を、なんとかしてどうにかしたいと思っていたところに、自分が無いと言われて、本当にびっくりしました。そして私は師匠の言葉を受け止めることができなかった。私はたまらずに、師匠の腕をつかんで「じゃあ、これは誰の腕なんですか」と応じた。その瞬間、私は師匠から警策で打たれました。それでも気付けなかったんですね。気付くどころか、この自分という塊を強くしてしまった。やはり、私たちは、自分を手放さなければ、智慧は現れてこないものです。

皆さんの命は誰のものでしょうか?そう、皆さんの命は、皆さんのものであります。

けれども、もう少し踏み込んでいただくと、皆さんだけのものではないと気付くはずです。なぜならば、皆さんの命は、皆さんの父や母、ご先祖様から繋がり、さらに山も海も鳥も花もここに参加されている人々にも繋がっている命を生きているからであります。これを、禅門では「ひとつながりのいのち」と言います。自分という塊を手放すと、このひとつながりの命というものに気づけるのです。般若の智慧というのは自分という塊を手放すところに現れるのです。

般若心経を学ぶときに、大きく三つに分けて学ぶ方法があります。

一番の願目が観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空度一切苦厄までです。その次の舎利子から以無所得故までは、お釈迦様がお説きになられたことを「無」や「非」という言葉をもって、教えを否定するのではなくて、とらわれることを戒しめている段落。そして最後の羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。この真言を唱えて、周りの人々、次の世代の方々に伝えなさい示される段落と大きく三つに分けられています。

今日は、臨済宗の禅匠、至道無難禅師が著された『即心記』を中心に、一番の眼目である『観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄』のところを見てまいります。

まず『観自在菩薩』です。これを「お観音様が」と訳す方が多いですね。
でも、至道無難禅師は「見レバ我ニ有ボサツ也」とお示しになられます。観自在菩薩をお観音様がと訳せば、主語はお観音様ですけれども、「見レバ我ニ有ボサツ也」と訳せば、主語は自分自身なんです。つまり皆さん自身が菩薩様ですよという意味であります。

こう聞くと、謙虚な方ほど、自分にある菩薩とか、自分が菩薩だと言われても、なかなか頷くことができないものです。けれどもどうでしょうか、私たちが美しいものを美しいと感じる心、正しい悪いと判断できる力、人の情けというものをかたじけないなと思う心も持っているのも事実です。

『佛祖の往昔は吾等なり。吾等が当来は佛祖ならん。』
これは、道元禅師様のお言葉です。佛祖というのは道を悟られた方々で、ありがたいことにその方々も昔は私たちと同じ凡夫でありましたよ、と。ならばこの私たちも、佛祖が歩まれた道を親しく歩むことによって、やがては佛祖と同じ道に適うことができるよ、という意味であります。佛祖と同じ道を親しむ、道を歩むというのは自分を手放す道であります。これこそが、自分を手放す道、自分という塊を手放していく道であります。


<こちらでの公開はここまでです。全体の講演テープをご希望の方は仏教情報センターまでお申込下さい(千円送料込)>


(2013/03/28「いのちを見つめる集い」より)

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