生死の苦境こそ修行の機会  ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ


  まず、仏教とは何であるかといえば、大日経或いは大乗荘厳経論などによれば、大悲が仏教の基、或いは仏教の種であるというふうに考えています。ですから、そこから導かれる人の生き方なすべき行いは、非暴力であります。
そして、仏教の思想的な面を特徴付けるものは何かといえば、縁起(「因縁生起」すべてのものは原因と条件の出合いによって生ずる)であります。縁起にもいろいろあり、因果の縁起、業(行い)、もっと深くなれば空性(くうしょう・無自性とも言い、不変なる実体は存在しないという意)ということになると思います。

非暴力の行いは大悲が基であって、人を害しない、他者の生を邪魔しないことです。
具体的には十不善業(じゅうふぜんごう・「殺生せっしょう」「偸盗ちゅうとう」「邪淫じゃいん」「妄語もうご」「綺語きご」「悪口あっく」「両舌りょうぜつ」「慳貪けんどん」「瞋恚しんに」「邪見じゃけん」)から離れて十善業を起こすということです。
これは大乗仏教であれ小乗仏教であれ、仏教徒は誰もが守るべきことであります。
非暴力をもっと愛情をもって押し進めれば、ただ人を邪魔しないだけでなく、人を助けることが大乗です。
  要するに仏教というのは、大乗小乗を問わずどういう仏教であっても、大悲のもとで人を助ける、或いは救済する。それが無理ならば、少なくとも人の邪魔をしないということです。
これを基にして六道輪廻(六種の苦しみと迷いの世界「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」を際限なく経巡ること)を考えれば、大悲とはあらゆる衆生が苦しみから離れるように願うということです。 
特に大乗仏教から考えれば、苦しみを離れるように自分が責任をとるという気持が大悲です。
ですから、そのためにはあらゆる衆生の苦しみを納得しなきゃならない。或いは理解しなきゃならないのです。
そして、他人の苦しみを知るためにはまず自分の苦しみを知る必要があります。自分の苦しみを知ることが出来なければ他人の苦しみ、他人の問題を知ることは難しい。
その大悲を起こすためには、出離(輪廻の迷いからの解脱を求める心)が重要です。出離(しゅつり)を起こすことが出来なければ大悲を起こすことは出来ない。出離のためには自分の苦しみを知ることが大事です。
そういう意味で、お釈迦様は初転法輪と呼ばれる最初の説法の中で、四諦(したい・「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」)を説かれました。
  その第一は苦諦(くたい)です。「生老病死は苦である、これは苦である、かれは苦である」というように、苦しみを知ることが大事だと言っているのです。
  苦しみを知ることが出来なければ、苦しみの原因を理解するというのは難しい。輪廻というのは苦しみの世界であっても、その中にどっぷりと浸っているままでは、その状況から離れることが出来ません。
だから、出離というのは輪廻の苦しみを知っていて、その上で輪廻の苦しみを厭い離れ、そして解脱ということを求めるのです。解脱というのは永遠な幸せです。
こ れを求める心を仏教用語で出離と言い、出離を起こすことが出来なければ大悲は起こせない。


出離のためには、輪廻の苦しみを厭うことと、もう一つは輪廻の原因である業と煩悩(集諦じったい)を捨てるべきであるということです。
  苦しみというものは、何の因も縁もなく、つまり原因と付帯状況なしに、突然生じるものではありません。苦の主な原因は煩悩であって、縁(状況)は業。ですから、罪とか不善業、そういう苦しみの原因を捨てることが大切になります。 
出来るだけ十不善業から離れて、善業を、良きことを積むということです。仏教の中で釋尊が説かれたのは、そういう輪廻の苦しみから解放されて、永遠の幸せを得る方法です。
  次に滅諦(めたい)と道諦(どたい)です。滅諦というのは煩悩とか業から離れることによって、苦しみが滅に至ること。しかし、滅諦もまだ原因がある。
  これが道諦。これは仏教の修行です。解脱を得る原因である修行です。煩悩から離れて心の落ち着きを得ることです。
六道輪廻というのは人間だけじゃなくて、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天に、生まれ変わり死に変わりして、永遠に迷いの生が続くことです。その苦しみを厭離するのが出離。
  ですから出離はお坊さんになるという意味だけではない。
  その苦しみにはいろいろな種類があります。生・老・病・死、それは苦しみですけれど、こういう苦しみは仏教からいえば粗い苦しみですね。動物までも知っている苦しみです。
  そればかりでなく、一見幸せと見える事も本当は苦しみなのだというものもあります。美味しいものを食べたとか、元気であるとか、普通、これは幸せです。しかし、仏教では苦諦の中に入ります。 
  なぜならそれらは必ず終わる。変化する。それまで楽であったものが苦に変わるのです。
例えば、外はすごく寒い。でも家の中に入るとストーブが焚かれていて暖かく気持ちは楽になる。が、この楽は長くは続かない。時間が経ってくると「暑い」と言い、着ているものを脱ぐ。つまり、普通いわれている幸せも本当の幸せではなくて相対的なものであり、本当は苦しみであることを知るべきであるということです。
しかし、これは仏教の特徴ではなく普通のことです。


  では仏教の特徴は何かと言うと、自己を五蘊(色・受・想・行・識)で表し、これは私たちが持っている体と心のことですが、これが苦である(五蘊盛苦ごうんじょうく)という諦めであります。
  お釈迦様は、五蘊、つまり輪廻する者の体と心そのものは、苦しみであると言っているのです。なぜ苦しみかというと、それは業と煩悩から出ているからです。
  例えば、人間というのは畜生に比べれば、まだ善に近い業から生じたものですが、しかし、善業であるけれども同時に煩悩も深い。煩悩の中でも無明(盲目的な自己愛)から生じたということです。
  そういう意味で、仏教から考えれば皆苦しんでいる。六道輪廻のどこに生まれても、天国に生まれても地獄に生まれても、或いは人間に生まれても、苦しんでいるということです。
  これを知ると人や生き物は誰でもひとり残らず苦なのです。たとえ健康に恵まれ、経済的に裕福で、社会的に地位が高くても、普通でいえば幸せな人と言えるかも知れませんが、仏教でいえばそういう人も本当の幸せではない。これを苦諦として知らなくちゃならないのです。
  ですから、仏教が考える苦しみは、私たちが感じている苦しみだけでなく、これを超えてすごく奥が深いのです。
  仏教はこのように苦を深くとらえ、そこからの出離を願い、解脱への道を歩むことを説くのです。

 次のステップとして、小乗仏教と大乗仏教の共通点ですけれど、それは慈悲です。慈悲というのは、最初話したように、あらゆる衆生が苦しみから離れることを願うことであります。
  例えば、仏教から考えれば菩薩とか仏とかは尊敬と帰依の対象ですが、それは慈悲の体現者であるからです。そして、仏教を信じていなくても分かることは、誰でも優しく接してくれる人はいい人で、挨拶もしないような人は良くない人と感じます。優しい心を持っているか持っていないかは、自然に外に表れるものです。外面だけで判断するのはいけないですけれども、一般の話だとそうなる。
  そして我々は、知っている人で優しい人であれば、誰でも尊敬する。例えば、政治家や宗教家でも優しい人であれば、国や思想を超えて尊敬します。それは彼らが特別な慈愛を、優しい心を持っているからです。
仏教の考えでは、苦しみがなければ慈愛が出るわけはない。だから、苦しみがなければ慈悲は起きないし、苦しみがなければ出離は出来ない。
  そういう意味で、仏も菩薩も出離から生じています。或いは慈悲から生じた存在です。
  これの基は苦しみに対する理解があるから。そして自身をまず苦なる輪廻から解放したいという出離への願いが起こる。他人に対しては、自分がそういう苦しみを持っているから、自分と同じように彼らも同じ苦しみから離れてほしいという願いが生じます。自分というのはいくら大事にしても一人であって、他人というのは大勢、数え切れない人と考えます。
ということは、他人は一切衆生という意味を含んでいてものすごい価値があるということです。その彼らの苦しみを考えればものすごい力があるということです。
  慈悲を起こすことは、ある意味で自分の気持ちを無視して他人を大事にすることです。でも、結果としてその慈悲のおかげで、自分ももっと元気になれるし、もっと立派になれるし、本当の意味でもっと幸せになるのです。
  お釈迦様は、最初は私たちよりもっと罪の深い人でした。でも慈悲を起こして菩薩になって、そして修行して仏になった。そういう意味で、慈悲というのは普通の人が菩薩になろうとする時、とても重要なのです。
  それは、菩薩というのは苦しい時であっても、人を助けることを苦労と考えないからです。衆生のためにすれば幸せになるという気持ちがある。それは、慈悲があるから。慈悲があるから菩薩として輪廻する時でも幸せなのです。
そしてもう一つ、菩薩から仏になった時も、勿論完璧な人ですけれども、まだ私たち衆生を無視したり出来ない。何故かというと、仏様にはものすごい慈愛があるからです。
  そういう意味で、慈悲というのは考えられないほどの精神的な価値があるのです。それは宗教の枠を超えて、大変な価値なのです。
  仏教の基は大悲(慈悲)です。そうすると仏教が考える苦しみについて知ることが大事になってくるのです。
  その慈悲を起こす方法ですが、チベットではトンレンといいまして、英語に直訳すればギブアンドテイクですが、意味は全然違います。自分が持っている幸せとか善根(良き報いの種)を与え、他人の苦しみを受け取るということです。大変なことですが、こういうふうになればものすごい修行ができるのです。


  そうすると本当の慈悲が確かなものになります。また、一時的なことでいえば、病気までも治すことが出来る。そして、将来的なことでは、今までの大変な苦しみをなくすことができる。
  これは呼吸する時にも行う修行で、息を吐く時に自分が持っている善根とか幸せを衆生に与える気持ちで吐き、吸う時には衆生の苦しみや煩悩を自分の一番大事にしている心臓に入れる気持ちで吸う。心臓には自己愛着という悪いものがあるからです。
  だから、大乗仏教の本当の敵は自己愛着ですね。そういう自己愛着というのは爆発したように観想するということでしょうね。 
  勿論トンレンというのは、自分の幸せを人に与えて衆生の苦しみを自分が受け取ることですから、現実的にそういうふうになるのは難しいです。とても縁が深い人の苦しみを受け取ることはしやすいですが、なかなか普通だったら、人の苦しみを受け取ることは出来ない。でも、こういうふうに心の訓練をすると大変な力になるということです。
  だから、同じ病気でも、考え方によって軽くなるとか重くなるということはあります。これを基にしてこういうふうに考えましょう。
  体の病気であれ心の病気であれ、病気になってしまったらなったでいい、と。何故かというと、自分が痛いとか病気で悩んだりするのは、今までの不善業或いは罪、それの浄化であるというふうにいえるから。
  そういう意味で、自分に病気があるから仏教に向かうとか、宗教の修行をしたいという気持ちも出る。ですから、将来的に、もし自分がそういう苦しみとか病気とかにならないためには、これから善業を作らなければならないというふうに考えます。
  だから苦しみがあるのは良い事なのです。輪廻のことがよく分かり、他人の苦しみがよく分かるからです。
  苦しみがなければ慈悲を起こすことは出来ないのだと考えて、もっと元気を出すことです。
  逆にそういう苦しみがなければ、人に威張ったりして将来的に苦しみになる原因を作るというふうに考える。
  とにかく、そういう様々な修行上の困難を仏教用語で煩悩障(ぼんのうしょう)と所知障(しょうちしょう)といいます。
  煩悩障は解脱するための主な邪魔。所知障は仏になるための主な邪魔。仏教の修行とは、煩悩障と所知障を浄化することです。
  ですから、自分もそういう状況になるということは、その修行になるわけですから、出来れば喜ぶべきです。
  そしてもう一つは、自分ひとりが病気をしているのではなく、世の中にはたくさんの人が同様に病んでいる。彼らの苦しみを、自分の病気の上に受け取ろうとします。そういうふうに出来ない人でも、自分が病気をした分だけ、彼らの病気を軽減したのだというふうに満足を起こすことは重要です。


  これは考え方ですから、誰でも出来ると思いますし、それは大変な良いことになります。
  そしてもう一つは、今私は病気です、という時に、その私というのは何であるかと考えてみましょう。それは思想的には空性なのです。
  私は何であるかといえば、簡単に考えれば、体と心です。じゃあ体と心を別にすれば、ほとんど物質で出来ていて、ただの死体になってしまう。何も意味のない空(くう)であるわけです。
  じゃあ心はというと、これも空間のような空(から)のもので、これも空(くう)である。そういう意味で、私という存在をつい絶対的なように考えますけれども、そういうものではないのです。
  それと同じように、病気もないということです。病気というのも、原因と条件が揃って出たということです。
  例えば、自分は耳が痛いとします。耳のどこが痛いか分析すると、もうない。見つけられない。そこでちょっとでも瞑想するとか、考えることが出来たら、自分が考える通りの病気はない、ただそう考えるだけなのだ、というふうに考えることも出来るということです。
  そして、病気がなくて健康であれば、それもまたよかったということです。何故なら、健康であればいろいろな善業を積むことが出来るからです。
  人間の体というのをもっと大事に有効にして、身・口・意によって善業を積むようでありたいと考えます。
  そしてもう一つ、さっきと同じように、自分の幸せは彼ら(衆生)に分けるように、衆生のためになりますようにと考えたり、或いは幸せとか善(良き心)とかが皆のためになりますように、そういう意味で、等虚空(とうこくう)なる衆生、虚空というのはものすごい広いですね、それほどの衆生がいるから、虚空いっぱいに満ちている衆生が幸せになりますようにというふうな回向をすることです。
  そのようになればまた、良いということです。
  つまり、病気でも良い、健康でも良い、ということです。いろんな理由でね。
  もう一つ、経済的に困っている時も、モノがなければないほうがいいのです。何故なら、財産とかお金というのは、家族とか社会的仲間とかの争いの源ですから。財産がないことを心配したり悲観しないように、ないことは良いことだと考えるようにしてほしいです。


  もし泥棒が来ても、お金がなかったら泥棒に害を与えられることはない。逆に、自分が金持ちであれば、勿論泥棒も悪いですが、お金をたくさん持っている自分も悪いと考えます。
  つまり、どういうふうに心を考えるか。考え方によって生き方も違ってきます。苦しみも幸せも絶対的なものはないということです。それは自分の考え方によって変えることができます。
  ですから、今、病気であっても経済的に困っていても、それを苦しみとしてでなく、変容して幸せになれる。それは心の持ち方なのです。
  では、財産がある人はどうか。それは良いことです。福徳を積むことができるからです。困った人にあげることが出来るし、仏教徒であればお寺とかお坊さんに、たくさん供養することができます。
  そういうふうに善業を積むことで、一時的にも幸せになれるし、究極的にも幸せになれる。それは良き心の結果であると考えられます。
  また寿命について、短命に終わることはどうかといえば、それは喜びなのです。何故なら、長生きすると自分が様々な罪を犯す可能性があるからです。
  しかし、これは普通の人には分からないですね。一つ例があります。それは、昔偉いお坊さんがいましたが、彼は五年長生きし過ぎました。五年前に死んでいれば大変立派なお坊さんでした。その五年の間にあるお寺と喧嘩して、すごい罪を犯したのです。
  ですから、早く死ぬことは悪い状況から離れて罪を犯すこともないから良いと考えるのです。
この場合考えますのは、人間というのは良いことをすれば人間以上のものはない。しかし、悪いことをすれば、これも人間以上のものはない。例えば犬にしても、悪いことはしますが人間ほど悪いことは出来ません。
  そして、長生きすればどうかというと、それはまたいいことで喜ぶべきことです。人間としてたくさんの経験をして、特に仏教の修行を考えれば、ものすごい経験を積んで、仏教の秘訣を修することが出来て、立派な修行が出来るからです。
  そういう意味で来世でも大変良くなるというふうに考えることが一つです。

 ともかく、これまでの考え方をまとめれば、良くても悪くても、病気であっても健康であっても、心の真底から安定して楽にするというのは、大変に重要であるということです。
  表面的には、ある時は楽しいこともあるし、時によっては悲しく苦しいこともある。そういう外側の一時的な楽しみ苦しみによって、心の真底まで影響を受けないように、真底では安定して、常に楽な気持ちを起こすというのは重要です。
  常に自分の心の真底で幸せになるということです。
  だから、表面ではアップダウンがありますが、自分がそれに負けないようにすることが大事です。常に心が安定する。定着する。なかなか難しいですけれどこういう心の持ち方を考えて、今までの話の中で、苦しみとか因果関係の法則とかを考えるのは重要です。
  そういうふうに出来たら、修行者というのは逆境であればあるほど修行が出来るのです。
  逆境というのは、病気をしたり、人から意地悪をされたりとか、いろいろな逆境がある。その時、もっと自分の心が強くなって慈悲の行を実践できるのです。もし、自分が困ることが何もなければ、自分の心は楽をしてしまって、何も出来ないということです。
  ですから、そういうふうになるためには心を訓練する。訓練するためには勿論その訓練の仕方を勉強しなければならない。そのために仏教の本を読むことも大事です。
  だから主には慈悲ということが大事で、苦しい時に輪廻転生の話をすると一時的には楽になりますが、あまり意味がない。
  仏教からいえば、私たちの輪廻転生というのは初めがないということです。心の初めもなく、終わりもないのです。
そういう意味で、今、一時的に苦しんでも、それは大変な逆境なのですが、これで今、特に自分たちは人間であるし、知識があるから、仏教の教えを実践の中に受け取ることが出来ます。
  そして、いい機会だと考えて、もっと元気を出して菩提心や慈悲などを起こすことが重要だと思います。
ジャータカ(釈尊の前世譚)によれば、お釈迦様も地獄に堕ちて、そして地獄で皆苦しんでいるから、彼らの苦しみを自分に引き受けたいと、強くそういう気持ちを起こしたそうです。そうして地獄から解放したというのです。それが初めての菩提心だったそうです。
  だから逆境というのは、常に悪いとはいえません。時によって逆境は菩提心に変容するのです。特に死とか病気は、これを修行させる教えです。
  自分が元気だったら仏教に関心は持たないかも知れません。自分が苦しんだり困ったりして信仰を持ち、その後立派な修行者になった人も大勢います。
  だからもし、自分たちが健康とか楽な生活が出来たら、勿論一時的には幸福な暮らしができますけれども、それで終わってしまえば必ずしも最終的な幸福を得ると限りません。でも逆境があれば、これがきっかけでもっと立派な修行者、菩薩、仏になれるのです。
  それをひとつ是非考えて下さい。これを深く考えて、自分の心を狭いとか弱いとか思わないで、もっと勇気を出して事に当たれば何でも出来ると思います。そうすれば大変な立派なことになります。

 


 

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