落語とボランティア  古今亭圓菊

  圓菊でございます。よろしくどうも。今の紹介には「落語家の中ではいい男」ってのがちょいと抜けていたようで……。(笑)
人前に出ると喋れない質であがっておりますが、ひとつよろしく。(笑)
  とにかく笑って頂きたい。落語を聞いて大いに笑って病気が治ったなんて人はいっぱいいますからね。笑うということは何よりの薬だそうで、医学的にも証明されているようでございます。
  私は静岡県は島田で生まれました。越すに越されぬ大井川があり、島田髷発祥の地。いい所ですよー。この島田で比較的いいとこの坊ちゃんなんです、あたし。どっか品があるでしょ。(笑)
  大きくなりまして、少しの間三菱重工に勤めました。戦前はタンクを作り、戦後は米兵のジープの修理工場でした。勤めてみましたら、やはりボクみたいに幼稚園中退だと出世できない。(笑) こりゃ生涯職工かなぁ、くやしいなぁ、と。
その時分、お祭りの時などに芝居やのど自慢の司会をやっておりまして、ボクの言葉に皆が笑ってくれる。これが中毒になり、常に、人を笑わせたいという気持がありました。
  それで、知り合いになった十返舎亀造さんという漫才師に、この谷中(やなか)に居た志ん生師匠のところに連れてきてもらったのです。昭和二十八年でした。
修行というのは大変なものでねー。あの頃の東京は寒かったねー。お風呂の帰り、手ぬぐいが棒になったからね。掃除機も無いし湯沸かし器も無いしね。塀を毎日水で洗うんですが、ヒビあかぎれで大変よ。親がこんな手を見たら悲しがるだろうと思いまして、正月は絶対田舎に帰らないことにしていました。


  師匠によって違いますが、うちの師匠のとこは休みが無いんですよ。たまに、「今日休んでいいよ」と言われると嬉しかったですねー。こういう嬉しさは今の若い者にはないでしょうな。休みが多すぎますよ。
  で、この谷中は富士山が見えますでしょ。あれはいけないね。あっちが田舎だと思うと、お袋を思いだして涙が出てくるしね。また、うちの師匠は酒を飲むものですから、夜なかなか寝ないんですよ。師匠より先に寝るわけにいかないですからね、そのつらさに涙がポロポロ、耳元から枕にポトンポトンと落ちる。
  「人の飯は炊けても強(こわ)い」と言いますが、おマンマを食べる時の緊張感とかっていうものも、随分味わいました。しかし今になってみると、そういう昔なりの修行をしたというのが、良かったなぁなんて思います、えー。

 我々のほうは前座・二つ目・真打ちと三つに分かれております。前座は相撲でいうと幕下、ふんどし担ぎですよね。二つ目になりますとようやく噺家として見てくれて、紋付き羽織袴が着れるんですよ。
前座ってーのは最初にやるでしょ。その時はまだお客が居ない。「お客が来たぞ早く降りろ」なんてことを言われる。
  時には、お客は一人だけだからいいだろうなんていうんで喋らしてくれる。でもそういう時のお客というのはたいがい常連なんですよ。もう図々しいんです。「八っつぁんじゃないかい」って言うと、「そうだよ」って返事したりしてね。「こっちへお上がりよ」って言うと、「へいへい」なんてね。(笑)


  昭和三十二年に二つ目になりまして、《むかし家今松》となりました。その頃からテレビの時代になり、私もいいあんばいにあるテレビジョンに出ましたりなんかして、これから伸びようかなぁという昭和三十六年に志ん生が脳溢血で倒れたのです。
昭和三十六年十二月十五日、巨人軍の優勝パーティーの会場でした。川上監督の到着が遅れたため、食事の最中に師匠が噺す羽目になったのです。
  落語なんていうのは、子供が泣いていたり食べてる時に絶対出来るもんじゃないですよ。人は味と聞くこととでは、味のほうに注意がいきますからねー。
  で、師匠は一所懸命に噺すのですが、全然聞いてもらえない。どうして聞いてくれないんだ、どうして、とカァーとなって右の耳の辺りの血管が切れたのです。幸い会場の裏が病院だったので、すぐ担ぎ込みました。
  処置が早かったので三ヶ月で退院できたのですが、医者がきらいですからねー、毎日のように退院したいと言ってましたね。それと困ったのは、お金を挟んだ週刊誌をこっそり私に渡しまして「酒買って来いっ」てんですよ。これは、ねー。
酒飲みの執念というものはすごいですよ。退院した直後、歩けませんからね、台所まで這って行って酒を取ってくるんだから。ある日掃除をしていたら、師匠の本箱から本がはみ出てる。直そうとして見ると、本の奥にサントリーの角瓶がある。見つからないと思ってんのかねー。


  志ん生師匠は交遊が広かったですよー。吉田茂さんが総理大臣の頃、よく官邸に呼ばれました。鞄持ちでついてったんですがね。今の政治家は落語家を官邸に呼んだりなんかしませんね。どうしてかなと考えてみますと、談志が議員になっちゃったから、それからでしょうね。(笑)(「ここはカットよ、談志さんは大先輩だからね」)
吉田さんは粋な人でしたね。志ん生師匠が「今日は総理大臣の前で……」と噺し出すと、「師匠、総理大臣はよそうよ、吉公と言ってちょうだい、吉公と」と。これはお孫さんの三笠宮信子妃殿下から聞いた話でして、その時はさすがの師匠もしばらく言葉が出なかったようです。


  また、池田勇人さんや小泉信三先生なんかもお付き合いがございましたよ。小泉先生は師匠の人情噺を涙をポロポロ流しながら聞くんですよ。人情深い方だなぁと思ったものです。
  そういう師匠でしたが、やはり脳溢血にはかないませんでした。言葉は大丈夫だったんですが、足に後遺症が出て歩けないんですよね。それで「今松、お前頼むよ」ってんで、私が背負うことになったんです。嫌だなんて言ったら首が飛びますからね。
最初、十日間ぐらいかなと思い、後十日ぐらいかなと思い、とうとう三年間負ぶっちゃいました。向こうは六十キロ、こっちは五十二キロよ。重かったねー。 
師匠の家は道が狭くて車が入らないんですよ。で、車を降りて帰り道に居酒屋がありましてね、その前に来ると必ず「止まれ、止まれ」。
  《菊正宗》の特級が好きでねー、コップになみなみと注がせまして、グーッと一気に。効きますよー。とたんにガクッ。もう死んだのを負ぶうと同じよ。帰ると女将さんに「何で飲ますの」って怒られますしね。
  人を背負うということは、背中とお腹がピタッと合うから脈がピタッと合っちゃうんですよ。嫌で負ぶっていると、負ぶいにくいし負ぶわれにくい。「この人のためなら!」と思わないと、どうも具合の悪いものです。
つらかった。同期の者はどんどん売れていくし、友達からも師匠を負ぶってばかりじゃ落語生命終わりだぞなんて言われて。何で俺ばかり……、損な役目で悔しいなぁ……、と思った時に「文化」。
  私の解釈は、本を読めばいいだけじゃない。この文章いいなぁ、しかし、この文章をもっと良いほうに化かせばもっと良い文章になるぞ、というようなことで、良いほうに化かすということが「文化」だと心得たのです。
これは文化というものだ、神様がくれた苦労なんだ、くれた苦労なら引き受けましょう、そう考えるようになった。
  すると、昨日まで重かった師匠がスーッと軽くなったんです。ほんとですよー。


これはねー、有り難いことだなぁと思います。道ばたのタンポポを見て、咲いているなぁ、きれいだなぁということではなくて、誰に踏まれるのか摘まれるのか見向きもされないかもしれない、でも、タンポポという花は、自分の生命を咲き誇って死のうとしている、その健気さに黄色が尚一層黄色く見える、そういう感じ方が出来るようになりましたからね。
  タンポポには、人に見られよう人に褒められようなんて気持はないんです。福祉のこともそうです。こうやったら褒められる、こうやったらお金になる、そうじゃない。相手が喜んでくれた、有り難いな、それだけの気持。
  自分に欲があっては福祉というものは出来ないぞと肝に銘じて、四十年近くいろいろ福祉をやってまいりました。

 それでね、師匠が「負ぶうのはもういいよ」と、真打ちにさせてくれたんですけどね、でも、テレビ・ラジオというのはもう遅いとボクは思ったんです。
  今もそうですがテレビに出てると、あの人は上手い売れてるとなる。テレビってのはプロダクションがあってそこが人を集めて、上手くても下手でもテレビに出さなきゃプロダクションはお金にならないからバンバン出す。そうすれば下手なやつだって上手くなってくる。
  文化庁が出す功労賞だってそうよ。テレビに出てるから上手いんだなんて判断は幼稚じゃないかなぁ。浪曲もそうですし、義太夫なんかも一所懸命やってる。あの努力を、もうちょっと飛び込んで、見い出すような役人(文化庁)になっていただきたいですなぁ。
  結局、私は売れないままでした。人の三倍も四倍も苦労しているのにどうして……と。そうか、俺は前世で随分悪いことをしたんだろうなぁ、(笑) その悪いことが今自分にきてるんだろうなぁ、よし、来世にはもっと立派になりたいぞ、と。だから何か今良いことをしなきゃなぁということで、ボランティアを一所懸命やっているようなわけです。
  やはり前世・来世というものがあるんじゃないかと……、丹波哲郎の気持ちですな。(笑)
  今、志ん朝さんが売れてますが、もちろん噺も上手いですが、やはり志ん生の倅であれば売れるし、田舎から出てきた者じゃどうしようもないこともある。その生まれたところで差がついてしまってるんだから、それを克服するものを努力するということ。
  病気もそうだと思いますよ。はからずも病をもらったら、よし、この病を克服しようというのにはやはり堅い信念がいります。考え出すと人間は悪いほうばかり考えますからね、良いほう良いほうと明日の方を向いて、絶対小さくならないで、大きく胸を張って生きていこうじゃございませんか。

 そんなようなわけで、一所懸命福祉というのをやっていますが、いろんなことが福祉ですねー。自分の教育になります。
  一番最初にボランティアに行ったのは、目の不自由な人たちの所でしたが、「心眼」というのは、あるねー。ほんとに生まれるそうです。
  目が見えなくなって死んじまおうかと思っていて、いや、俺は生きるんだとなったら、神様というのは生きるようにちゃんと作ってくれる。心の目というものが開くんだそうです。医者が駄目だと言っても、生きるんだという信念があれば、その努力に従えば、絶対生きるらしいです。


  東青梅(東京)に清明園という目の不自由な人ばかりが暮らしている施設があるんですが、そこの園長さんは、医学部の受験勉強中に風邪がもとで失明したそうなのです。ある時「皇后様から頂いたバラなんですよ、色がいいでしょう」と見せられて、びっくりしましたね。心眼で色が分かるんだそうですよー。
  だから人間ね、寿命といえばそれまでだけれど、神様が下さってる苦労なんだから絶対生き抜かなきゃいけません。
  指を怪我して膿んできたら膿が出るでしょ。膝が痛くなったら水が溜まるでしょ。それは炎症を冷やすための水であるしね。そういうように、神様は体全体を元気にさせよう、援助しよう、生きさせようと努力してるんですから。
  こうやってボランティアをやっているといろんな方に会います。目の見えない方は耳が達者ですし、耳の聞こえない方は目がいい。ちょっとした口の動きで言葉が分かりますからね。ですから、私も手話をやりますが、これは付き添いであって、それよりも目つき・態度・大きな声、これが大切です。


  挨拶一つにしても、「コンチワ!」、「オーどうした!」となる。小さい声で「こんちわ〜」ってなると、相手も「どうしたんだ、おい、元気ないな」となりますよね。もちろん手話でこの違いを伝えることはできますが、やはり体全部で表現することが大事ですな。
  それから、相手の体に触れることも大切。この前もある老人ホームへ行きまして、帰り際に「元気でね」とおばあちゃんを抱きしめたら、「二十年ぶりに男の人に抱かれたよ、嬉しいねー」と喜んでくれましたよ。(笑)
  小児マヒの方の施設へ行った時、二十歳ぐらいの女の人がベッドに寝てワァーワァーと泣いている。どうしたのかな、いやこの子は手が痛い足が痛いと泣いてるんじゃないな、自分の存在を訴えてるんだなと思ったのです。で、その子のよだれを拭いてやり抱きしめてやったら、帰るまで泣かなかったということがありました。
  後で園長さんが、あの子に触れてくれた見舞客は師匠が初めてですと、泣いて言ってくれたことがありました。
  そのように、やるなら徹底的に、この人のためならという、体全体をぶつけてあげないとね。ただ触って「いい子だ、いい子だ」なんていうのはね……。
  これも小児マヒの方たちの運動会でしたが、七人でかけっこをするんですよ。十二、三歳の子がサーッと駈け出していってゴールの寸前で立ち止まったんです。と、後ろを振り返って後の六人が着くのを待って全員でゴールのテープを切った。
十二、三の子が……。
  俺はボランティアをやってる、福祉をやってる、あぁこの子にはかなわないなぁと思いましたね。
  いじめられたこともバカにされたこともあるだろう、褒められたこともあるだろう。いろんなことがありながら、でも、自分一人がテープを切って一等だと喜んでちゃいけない、みんなにも一等の気持を味わせてあげよう、喜びを分かち合いたい。今の世の中の家庭に欠けているものはこれですな。


  うちだけが良ければいい、うちの子だけが、という気持ではなく全体が、みんなで仲良くやりましょう、みんなで良くなりましょうという、現在の社会に欠けているものをその子が見せてくれたのです。
  そのように、福祉の中には自分が教わること、自分が勉強になることがいっぱいあるような気がいたします。
  最後に、手話というのはまだ全国で統一されていない。東京と大阪では少し違うんですよ。だから、習っても途中で止める人が多いことと、生活に密着した必要性が無いから発達していかないのです。 
  私が習い始めたのは昭和五十年。読売新聞・小鳩事業団の手話教室第一期生です。八十人の募集がありまして、最初圓菊で応募したら売名行為は駄目だってんで、本名の藤原淑で通いました。
  八十人が、一月経ったら四十人、二月経ったら十人足らず、最後には三人しか残らなかったですよ。


  その頃、電車の中で手話を使っていたら小さな女の子がじっと見るんです。するとその子の母親が「見ちゃ駄目、見ちゃ駄目」と。
  私が「聞こえますから大丈夫ですよ」と言った時の、その母親の顔……、(笑)そんな時代でした。耳が不自由というだけで不具者とされていましてね、家族も恥ずかしいからと外へ出さないようにしていたのです。
  今は障害を持つ方たちもどんどん表に出るようになりましたし、聾唖の方たちは特に元気ですねー。
  とりとめのない話をしましたが、やっぱり負けないことですよ。頑張ろうぞと、いつまでも生きようじゃないかというような心を作りまして、それで何か一つ目的を持って。
  庭の草むしりは自分の仕事、ガラス拭きは私の専門と、それだけでも一つの張り合いでございますからね。何かそういう目標をつけて生活する。それからもう一つ、もう一つと増えていけばいいしね。
  そして表に出て歩く。健康を維持するためには歩くことが大切ですから。神様は簡単に殺しちゃくれません。コロッと死にたいから神様を拝んでますという人がいますが、良いことをし、人のためになることにおいて、神様はコロッとさせてくれると思います。
  生あるものは死ななくちゃならない。これは決まりでありますから、悔いなく生きて、こうもやったああもやった、もういいんだと諦められるようなものの死に方をしようじゃございませんか。
  私が福祉をやっているのは「あいつは良いことをやってるからきれいに死んだなぁ」と、言われるようになりたいと思うからなのです。世の中のためになる、人のためになる、人から喜ばれる、そういうことを何か考え出してみようじゃございませんか。

 

このページのトップへ